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第11話 「おばけの木」
名台詞 「平気、か、か、簡単じゃないのフローネ。こ、これは病み付きになりそうよ。で、で、でもフローネ、こ、こんなことは二度としないでよ。」
(アンナ)
名台詞度
★★★
 「おばけの木」を見つけるとなんの恐怖感も感じず登ってしまったフローネは、木の上から気根に囲まれた内部に転落してしまう。この非常事態に立ち上がったのは母アンナだ、臆病な彼女だがフローネを助けるべく経験のない木登りに挑む。その時に震えながら口にするのがこの台詞だ。
 もちろんこれは母としての「建前」と「本音」が交錯していて面白い台詞だ。自分の子供が簡単にやってしまう木登り、その親である自分が簡単にできるはずだという建前。怖さを隠して「面白い」と自分で自分に言い聞かせると同時に、怖がっている母の姿を娘に感じさせまいとする建前。同時に出てきた本音は「もう二度とこんな事はしたくない」という心の叫びであり、その原因を作ったフローネへの叱りの言葉としてこれが出てくる。同時に何よりも正直なのはアンナの震えた声、この演技は最高だと思う。
 声の担当は平井道子さん、この「ふしぎな島のフローネ」放映の数年後に亡くなってしまった方だが、この人の声も「フローネの母」として私の耳に定着している。何よりもアンナの演技ではこのアンナという女性の情けなさと強さを同時に演じなければならなかったから大変だっただろう。他の役で印象に残っているのはなんと言っても「宇宙戦艦ヤマト」のスターシアだ。同世代の人で女性ならばサリーちゃんを思い出すことだろう。
名場面 山頂 名場面度
★★★
 一方のエルンストとフランツは島の様子を探るために探検を続けていた。エルンストは島の反対側の様子を手っ取り早く探るべく山に登ることを提案。フランツもこれを受けて入れる。途中で転落して怪我をしたフランツは早速「この島に誰もいない」とくさるが、それでも何とかエルンストとフランツは山頂に到着する。
 「さて、主のお裁きはどっちかな? ここが孤立したただの島なのか、それとも陸続きか。何らかの形で交通の便があるのか。今こそハッキリするぞ」と勇んで歩き出すエルンスト、だがフランツはその結果が見るのが怖いようでエルンストの後ろを歩き、途中で一度立ち止まる。
 そしてたどり着いた島の反対側が見渡せる地点。一足先に見下ろしたエルンストは黙って下を見下ろし、この現実を受け止める。一足遅れてこの風景を見たフランツは、「もうダメだよ、おしまいだよ」と呟いてこの場に泣き崩れる。「船長さんみたいに誰にも知られず死ぬんだ」と絶望するフランツに、エルンストはあくまでも前向きに「こうして生きていればいつかは誰かが助けに来てくれるかも知れない」とフランツを力づけるが、フランツは「誰が助けに来てくれるの!?」とエルンストに問い直す。と思ったら今度はエミリーを思い出して泣く、救命ボートで逃げ出した人たちも死んだに違いないと。これに対してエルンストは掛ける言葉が思い付かない。
 ここでいよいよエルンストとフランツは自分達に突き付けられた現実を確認し、自分達が置かれた状況を認識するに至る。それは海難事故で九死に一生を得た一家が逃げ込んだ先が、人間の文明社会から隔絶された無人島だという事実。他の人類との連絡手段を完全に絶たれ、島から脱出する術もないという現実。そして船に乗っていた他の人たちも見あたらないという現実。つまり一家は完全に文明から孤立して、閉鎖環境の中で生き抜かねばならないという絶望を味わったのである。
 もちろんエルンストはフランツを勇気づけるために言った「誰かが助けに来てくれるに違いない」という言葉は当てにしてはいないだろう、この現実を見たショックと重圧を一番強く感じているのはエルンストに違いないのだ。同時に彼は自分が絶望の台詞を吐いては行けない立場だと言う事もよく知っていた。自分が希望を失えば家族も希望を失う、そうならないように家族を精神的に誘導し、家族が生存出来るように舵取りをしなければならない。その家族を守る責任が彼の背中にのしかかって来たのだ。
 もちろんフランツが父親のそんな本心にはこの段階では気付かないでいる。彼は自分に突き付けられた現実に絶望するしか出来なかったのである。自分に開かれていた未来、船上で出会った好きな女の子…それらを失ったという現実を突き付けられた若者は、泣くことしか出来ないのは当然だ。
 このシーンは本放送で見たのをハッキリ覚えているシーンのうちの一つだ。山頂に登って「ここは無人島」という事実を突き付けられるのは予想通りであったが、そのシーンをこのように殺伐と描いて現実味のあるシーンにしてきたことで、当時は鳥肌を立てて見た記憶がある。フランツがエルンストに勇気づけられて終わったりするのでなく、絶望するフランツにかける言葉を思い付かないエルンストという構図で終わったことも、現在になって見るとこれまたすごいとうならずにはいられないシーンだ。
 
感想  物語は二元中継で進んで行く。探検に出かけたエルンストとフランツ、それに上陸地点付近で小探検を楽しむ他の家族という構図だ。前者は家族に突き付けられた現実を確認するための役割があり、後者は今後の物語の展開に伏線を張るという役割を持っている。さらにフローネ一行の方には今回と次回でアンナの性格を印象付けるという役割も持たされている。今回も含めここまでアンナという母は、その情けない部分ばかりが強調されていたが、今回と次回でその印象をガラリと変えて頼りになる女性へと一気に印象を変えるための伏線も始まっているのだ。これらは前回以降の新展開にどうしても必要な要素だ。
 ただし明るい要素もある。少なくともこの島には食べられる植物があったという事実、それに畑を作ろうという考えもこの回の段階で出てくる。言われてみれば農家出身のアンナが本領発揮すべき時は近付いているのだが、やはりここは今までの情けない母のままでは役不足なのは否めないだろう。ただ無人島に流されての生活を描くだけではなく、こんなところで物語性をしっかり考えて丁寧に作っている辺りはさすが「世界名作劇場」だ。どうせならこの「ふしぎな島のフローネ」をリメイクして作って欲しいなと思うのは私だけだろうか? これを現代日本に流せば色んな意味で効果があると思うんで。
研究 ・おばけの木
 今回の物語の根幹は「おばけの木」との出会いである。そのために探検に出たエルンスト・フランツ両名から切り離されたアンナ・フローネ・ジャックはピクニックと称して小探検を行い、食べ物を発見するという大成果を挙げている。この「おばけの木」との出会いも食べ物発見と同等の大成果であることは物語が進めばわかることで、「流されてきた場所を知る」というエルンスト達とは違う、「当面の生活を成り立たせる」という困難を解決する大事な伏線となって行く。
 さてこの「おばけの木」だが、これがどんな植物なのか本放送時から疑問に思っていた。都合良く木の上に家を造るだけの空間があり、また木の中身は空洞になっているというその構造にとても驚いたのだ。もちろんこの不思議な木は物語が進むとロビンソン一家の住まいとなり、この構造を上手く使ったからくりが用意される。
 結論を言うとこの木は熱帯に分布するイチジクの仲間で、別名を「締め殺しの木」と言われている。鳥によって運ばれたイチジク属の種が、木上で発芽するとその根は地面に向かって元々あった木を覆うように伸びてゆき、やがて根が地面に達するとこれが幹として成長し、さらに元々の木よりも高い位置に枝葉を拡げるという。この様が元々あった木を絞め殺すように見え、実際に気根に囲まれ、日照を遮られて元々あった木が枯れてしまうこともあるという。この元々あった木が枯れると木の中に空間が出来ることがあるという(ただしこうして育ったイチジク属は元々あった木から養分を吸収しているわけではなく、独立して地面から栄養を得ているので寄生しているわけではない)。
 劇中の「おばけの木」はこのようにして元々あった木を殺してしまったイチジク属の大木だと考えられる。元々あった木も大木で、その上の方で発芽してまずそこで横方向に広がり、元々あった木の枝から枝へと伝って横へ伸びた後に今度は気根を下へ下へとの伸ばしたのだろう。元々の木は程なく枯れて腐敗して完全に消滅し、劇中に描かれたようなこのような形の木が生まれたと考えて良いだろう。このようにして育ったと思われるイチジク属の大木の写真がWikipediaにあるので参考にしてほしい。
 ちなみにこの木の上の方にある平面部分までの高さは、今回の劇中でフローネが転落したシーンから断定できるので計算したらとんでもない数値が出そうだったので途中でやめた。さすがにダニーが落ちた高さには勝てなかったが、チルトンが落ちた断崖の高さ(計算の結果42メートル)に匹敵してしまいそうだったのだ。そんなに高かったらアンナもさぞ怖かったことだろう…。

第12話 「おかあさんの活躍」
名台詞 「大丈夫、お母さんがついてます。フローネとジャックはここにじっとしていなさい。狼はお母さんが追っ払ってやるわ。」
(アンナ)
名台詞度
★★★★★
 エルンストとフランツが探検に出かけている最中、ロビンソン一家が海岸に築いた仮設テントでは恐れていた事態が現実のものとなっていた。島に住む狼のような猛獣にテントが襲われていたのである。前夜にその危険性を感じたアンナとフローネはテントの前に柵を作っていたが、突然に生死の狭間に立たされたアンナとフローネとジャックの3人は身を寄せて震えていた。だが子供達が恐怖に泣き叫ぶ光景を見たアンナの表情は恐怖から怒り、そして決意へと変わり、遂にこの台詞を子供達に言い残して猛獣との対決に挑む。
 ここまで徹底的に臆病な女性として描かれてきたアンナ、猛獣がいつ襲ってくるか分からないという状況ではフローネの明るさと、「襲ってこないで欲しい」という願望によって支えられていたのは確かだろう。その証拠にこの日の夜、フローネが先に就寝しようとするシーンでフローネに対し「行かないで」と言う感じの反応をしている。ところがこの最悪の事態が現実になり、子供達が自分にすがって震えているのを感じたとき、彼女の中に湧いた感情は「自分の子供達を怖い目に遭わせている」という怒りの感情と、なによりも何が何でも自分が子供達を守らねばならないという親としての自覚だ。後者については前話のフローネが「おばけの木」で転落したシーンでも描かれていて、このシーンへの伏線としていたのは言うまでもない。
 その彼女の中の感情がこの台詞に込められている。この台詞を語るときのアンナの姿は、それまでの臆病な女性とは一変して「子を守る親の姿」だ。この瞬間からこの女性は自分が親としてどうあるべきかを考え、自分が怖がっているばかりではどうにもならない状況に一家が放り込まれていることを自覚し、変化を遂げて行くのである。
名場面 アンナvs猛獣 名場面度
★★★★★
 名台詞欄の言葉を言い残し、震える子供達を守るべく意を決してテントの外に出てきたアンナ。彼女がテントの外に出たときは既に昼間設置した柵のすぐ外まで猛獣が迫っていた。ジョンがこれに対抗して吠えるがそれくらいでは怯むはずもなく、猛獣たちはある者は柵の間に首を突っ込み、またある者は地面を掘って柵の下を潜ろうとし、またある者は柵を乗り越えるべくジャンプを仕掛けてくる。まずはこうして柵を乗り越えようとする猛獣を銃で殴るが、猛獣たちは怯える様子も見せず、逆にアンナに飛びかかろうとしてアンナが驚きと恐怖で転倒する。さらに猛獣が柵を乗り越えようとしたところで、アンナは火の付いた薪を投げつける。これは多少の効果があり、火の付いた薪が直撃した者だけは怯んで後退する。これを繰り返すが投げられた薪の火が消えると効果はなくなり、こうなるとまた猛獣たちが柵の前に殺到する。
 テントの中ではフローネとジャックが抱き合って震え、遂に我慢の限界が来て「お母さん〜」と大声を上げてしまう。その声に反応したアンナはテントの中に入るが、「騒ぐんじゃないの! そこにじっとしてなさい!」と一喝、母の今まで見たことない行動に二人が驚いたのを見る間もなくアンナはまた外に出て行く。そこでアンナが見たものは…先ほど投げつけた薪の火が引火し、燃え上がる柵であった。焼け落ちて倒れた柵によって火傷を負うジョン、そして燃え上がる炎の中から柵の中に入ってくる猛獣…絶体絶命のピンチにアンナは後ずさりしながら銃を拾い、撃鉄を引こうとするが上手く引けない。そうこうしているうちに猛獣の先頭にいた者がアンナに襲いかかる、同時にやっと撃鉄を引いた彼女は振り返って反射的に引き金を引く。すると銃から放たれた弾丸は性格に襲いかかってきた猛獣の急所を打ち抜き、撃たれた猛獣は即死。その光景を見た猛獣たちは仲間の死を確認すると、敗北を認めて敗走を始める。その逃げる猛獣たちの後ろ姿を確認すると、アンナはそのまま気を失って倒れてしまう。
 この母アンナと猛獣たちの戦いは迫力たっぷりに描かれた。恐らく「世界名作劇場」シリーズで最も迫力のある「戦い」シーンであろう、そもそも「世界名作劇場」シリーズには「戦い」というシーンはあまりないが。猛獣たちの恐ろしさを印象的に強調し、さらに相手の動物がなんなのかハッキリさせないことで相手の「実態」を隠すという効果によって恐怖感を倍増させる。それに対峙する母アンナもこれまで描かれてきた臆病な面、「戦い」が苦手な面、銃の扱いに未熟な面、これら全てをちゃんと表現しつつ「子を守ろうと必死になっている」母親の姿として描き出したのが印象的だ。結果彼女は数々の失敗(序盤で銃の使用を躊躇ったり、火の付いた薪を投げたことで防波堤である柵を自ら焼いてしまった点)を犯しつつも、適当な放った銃弾が偶然相手の急所に当たるという幸運にも恵まれてギリギリのところで猛獣を撃退する。この撃退についても紙一重での成功だったことが展開として盛り上がるし、ここまでのアンナ像を見ていれば自然なのだ。これがすぐに銃をぶっ放して簡単に撃退に成功していたら、今までの情けないアンナ像はなんだったんだ?となって白けてしまう。よく考えられたつくりだと思うのだ。
 またこの中でもテントの中で震えるフローネとジャックを忘れないのもポイントが高い。特にフローネについては恐怖で押しつぶされそうにアンナの心の支えであったが、いざその時がくると怖がって震えることしかできないという変化を描いたのはこれまた自然だと思う。これでフローネが怖がらずに猛獣に対峙していたらやっぱ白けていただろう。泣き叫ぶ子供達にアンナが一喝する瞬間も良かった、子供達の前では今までの「情けない女性」像を見せようとしなかった彼女の迫力もこのシーンを大いに盛り上げた要素だろう。
  
感想  海難事故のパートが終わりを告げて平和な島での生活が繰り広げられていたが、フローネ達は唐突に自分達が生死の狭間に立たされたままであることを理解する展開となる。「ブラックバーンロック」号から脱出する辺りでは「船がいつ沈むか分からない」という意味での生死の狭間が描かれていて、目の前に見える島は「その生死の狭間から逃れるための楽園」として印象付けられていた。ところがその楽園と思われていた場所は、「いつ沈むか分からない船」と同等の地獄であったことがここで強調されるのだ。そしてここでその刃を向けられたのは、父エルンストではなく母アンナであって、今回はサブタイトルの通りアンナが主役で物語が進んだ。
 もちろんこの猛獣撃退は成功するのだが、この撃退シーンを「猛獣とアンナの戦い」という構図にしてどれだけ盛り上げるかが今回のキーポイントだったことだろう。その盛り上がった要素は名場面欄で解説した通りで、これまでにさんざん強調して来た「臆病な女性」としてのアンナをしっかりと描いた上で、簡単に撃退するのでなくギリギリのところで撃退するという内容だ。その戦いの前の晩のシーンも伏線としては重要で、エルンスト達の帰りが遅いことや同時にこの島にどう猛な猛獣が棲んでいるという事実を強調する役割があるだけでなく、ここでアンナがフローネの明るさを頼りにしてしまっている事を強調することで文字通りアンナが「猛獣との戦い」という状況に一人で放り出される構図を作り上げることに成功している。
 今回の物語ではエルンストとフランツの二人も、この「戦い」に向けて伏線を張るために出てきたに過ぎない。彼らが同じ猛獣に襲われたのは前々回だが、それとは別に二人が底なし沼にはまって苦労するシーンは、視聴者が「それによって彼らの帰りが遅れる」と自然に理解できる伏線となっている。もちろんその遅れは「戦い」の後の感動の再会シーンへの伏線でもあるのだ。
 いずれにしてもこの猛獣との対決シーンは海難事故や島からの脱出と並んで、「ふしぎな島のフローネ」で印象に残る展開のうちの一つだ。それとは別にフローネが銃を抱えているシーンは、彼らに訪れた「生死の狭間」を強調するシーンとして強く印象に残った。フローネと銃という組み合わせの違和感も、このシーンが印象に残った理由の一つだ

※今考察ではアンナと対決した猛獣は劇中にあったように「狼に似た猛獣」としたが、劇中に描かれた特徴などからこの猛獣は「フクロオオカミ」と推測される。これについてはハイジの寝言様で考察済みなので、是非とも参考にして頂きたい。
研究 ・底なし沼
 今回の物語を見ると研究のしがいがあるのはアンナと戦った猛獣であろうが、これは感想欄に記した通り他サイトで考察済みであることを考えるとここで改めてやる必要も無いだろうと思う。従って他では考察しないような研究をしてみたい、それが物語序盤でエルンストとフランツが遭遇する「底なし沼」だ。
 もちろん「底なし沼」なんというものは理論的に存在するわけがない。地球の反対側まで抜けている沼など存在のしようがないからだ。だがテレビアニメや漫画も含めて、多くの物語で「底なし沼」が登場して多くの登場人物がこれにはまって苦労しているのも事実。ならば「底なし沼」の正体を掴みたくなるのが人間ってもんだ。
 まず「沼」の定義が必要だ、同じような陸地で水が溜まっている場所のことを「湖」と言ったり「池」と言ったりする場合がある。「湖」や「池」でも「泉」のように水がわき出ているところがあったりして、これらの使い分けに混乱している人も多いことだろう。これを調べてみると、「池」と「沼」の定義は同じで「地表上の淡水で覆われた地域で湖ほど広くないもの」とされている。その上「湖」の大きさの定義もハッキリしておらず、具体的にどれだけ広いと「湖」で、どれだけ狭いと「池」や「沼」になると決められてはいない。慣例としては最大水深5メートル以上なら「湖」、最大水深5メートル以下ならば「池」、「池」の中でも水底全体に渡って植物が繁茂しているものを「沼」と呼ぶことになっているらしい。あれ、この定義で行くと水深5メートル以内で水底には絶対に植物があるのだから、「底なし」という状態は考えられないぞ。また水底全体に植物があると言う事はその浄化作用により、水の透明度が上がるから劇中描写のような陸地と判別が付かないような泥水であるわけがない。
 というわけでもう一度「沼」の定義を調べ直したら、欧米では「沼」の定義が全く違うことが分かった。欧米で言う「沼」というのは柔らかい泥が深く溜まっている湿地帯の事を指すらしい。これなら劇中の描写と一致するぞ。その中でも泥が10メートル程度溜まっていて(人間なら確実に足が届かない)、泥自体も流動性が高く透明度が低い(はまりやすくて底が見えない)もので、かつジャングルの中などで上に葉などが堆積していて気付かずに足を踏み込んでしまうような場所を、まるで落とし穴のように注意すべき存在であることから特に「底なし沼」と呼んでいるらしい。おおっ、葉などに覆われてはいなかったが、かなり劇中の様子と一致したぞ。
 「底なし沼」は動物等の遺体をほぼ原型で保つとも言われている。このような泥地の中には酸素がほとんど存在せず、動物がはまって抜けられなくなって泥の中で死亡しても腐敗が進みにくい(沈んだ深さにもよるらしいが)とも言われているのだ。現在発見される恐竜をはじめとする化石は、このようにして「底なし沼」にはまった個体の物であるという説もあるほどだ。大英博物館には「リンドーマン」と呼ばれる5000年前の人の物とされる人間の遺体がある、これは犯罪者かなんらかの儀式で「底なし沼」に放り込まれた人間と思われていて、腐敗がほとんどなくてミイラ化の状態で発見されたとのことだ。もしフランツがあのまま助からなかったら、その遺体は腐敗せずに泥の底で末永く保管されたことであろう(うっわー…)。

第13話「フランツの目」
名台詞 「でも鳥みたいに木の上に住まなきゃならないなんて…フランツが言う通り、本当に私たちも結局は助からないのかも知れませんね。私も正直な事言いますと、二度と人間社会に戻れないんじゃないかっていう気がしてきましたわ。ボート一艘無いんですからね、どうやってこの無人島から脱出できますか? 筏がありましたけど、それは家を造るために壊してるんですからね。」
(アンナ)
名台詞度
★★★
 前々回登場の「おばけの木」に家を構えることを決めたエルンストだが、アンナはフローネを助けるためにこの木に登った恐怖がまだ残っていて、高いところに住む恐怖を語る。縄ばしごを作るから大丈夫だと語る夫に、アンナは家のことではなく自分達が置かれている現状を正直に語ったのがこの台詞だ。
 アンナは他の家族とは違ってこの島の本当の恐怖を知っている。それは前夜に猛獣と直接対決したことで、その勝利が死と背中合わせの紙一重の事であったことも彼女はしっかり自覚している。実はエルンストもフランツもこの猛獣に襲われたとは言え、猛獣対策を厳重に施した状態から猛獣が吠えていたのを見ていたに過ぎず対決はしていないのだ。だからこそ「探検」から帰って来たフランツが「他の船客が見つからない」=「エミリーは死んだ」という考えに陥ってしまい絶望的になり、そこから「自分達が助かるわけがない」という解を出してしまった時は、口先では「私たちが助かったことを神に感謝すべき」と言いつつも本心ではフランツの意見に賛同していたに違いないのだ。だが一家の母という立場上子供達の前でそれを言うわけに行かず、夫と2人きりの時にこの本心と恐怖を正直に切り出したのだ。そしてこの台詞は普段のアンナのように恐怖から感情的に出てきた言葉ではなく、現在自分達が置かれている現状を冷静に判断して語っているのだ。だからこそ見ている方もこのアンナの台詞に頷いてしまう。
 この台詞を聞かされたエルンストも「確かに必ず助かるというハッキリした希望がある訳ではない」と答えるのが精一杯で、あとは言葉を失ってしまう。つまりこの台詞は一家が置かれた状況を冷静に、そして鋭く突き付けるものなのだ。協力者もいない、筏の一つもない、これでこの島から脱出できるわけがないという物語の現状を、視聴者にも突き付けたのだ。
名場面 無人島 名場面度
★★
 探検から帰って来たエルンストは一家にその報告をする。椰子やサトウキビが豊富だから食べ物には困らないという事実などを一通り話した後、フローネとジャックにテント外へ出るように言う。ここからは大人同士の深刻な話になるからだ。退屈したフローネは皿洗いでもしようと再びテントに近付くか、ここで中の「大人の会話」を聞いてしまう。救命ボートで脱出した人々は助からなかったと思わねばならないこと、周囲は見渡す限り海原が続いているだけという状況であること…「私たちだけになってしまった」とアンナが言えば、フランツは完全に腐ってて「結局は僕たちも助からないんだ、いっそその方がいいや。こんな誰もいないところで生きていけるわけがない」と絶望のみを口にする。両親がそんなフランツを必死になだめるが、フランツの絶望は並大抵ではない。その様子を見てしまったフローネは駆けだして、「みんな死んじゃったなんて嘘よ、別の島にいるのよ」と海に向かって力説する。
 実はこのシーンが一家の絶望のどん底である。島が無人島だと知り、かつ「ブラックバーンロック」号の他の生存者も見つからなかったという事実を認識し、一家は自分達が完全に孤立状態であると確認したのだ。本来ならそれに対しての対策を考えるべき席なのであろうが、実は一家の誰もが絶望的でなにひとつ名案が思い付いていないところはとてもリアルだ。フランツが絶望して腐っているのはもちろん、アンナまでも「脱出の方法をお父さんが考えてくれる」と完全に他力本願モード、そして名案があればすぐに実行に移す「実行力のひと」であるエルンストまでも、前々回から「いつか誰かに助けられるかも知れない」と繰り返すしかない状況だ。フローネとジャックは「無人島」という与えられた環境がとせのように過酷で、どのように恐ろしいか分かっていない。昨夜猛獣に襲われたのも、一度撃退すれば大丈夫とでも思っているのだろう。それとも「お父さんがやっつけてくれる」と簡単に考えているか…。そんな一家の絶望と当面の対策が何もないという現実をしっかりと強調することで、多くの視聴者は早くも「この物語がどう終わるのか」という点を気にし始めて、強烈に物語に引き込まれるというシーンなのだ。
 このどん底から一家は少しずつ這い上がって行く。そのために一家は当面の危機を乗り越えることから始める、最初は今回後半のフランツ失明の危機から始まり、猛獣対策や食糧生産などと当面の危機を乗り越えることが生への意欲を上げるという事に気付くのだ。次の絶望が意外な形でやってくるのは、まだ先の話だ。
  
感想  物語はふたつに分かれた。前半はエルンストとフランツの探検結果を受けて一家が絶望のどん底に落とされる。だがここは最初の底辺でここから少しずつ上がって行くという展開になって行くことに気付いたのは今回の視聴を見た時に気付いた。その中でもフランツの腐りようは日本のアニメで屈指の腐りようだと私は思う。もちろん「哀戦士編」前半までのアムロの腐りように匹敵していて、古谷徹さんという役者さんがこういう役で印象に残った理由の一つになっている。
 そしてこういう状況では腐った奴が何らかの被害を被ることが多い。その法則に従ってフランツが毒虫にやられ、失明の危機を迎えることになる。だがこの危機は一家にひとつの光明をもたらしたのも事実だろう、夫婦が力を合わせてフランツを看病し、両親とも疲れればすかさずフローネがその役を変わることが出来るということで「一家の絆」というものが強固であることを皆は思い知るのだ。だからこそまずは「当面の危機」を力を合わせて乗り越えようと思うのだし、次の絶望が来るまでなんとか希望を持って生きる事ができるのである。特にフランツは失明という「無人島に取り残される」以上の絶望と恐怖を味わったことで、これを克服したことで「無人島に取り残される」という絶望からも脱することが出来たのだ。
 いよいよこの島での「当面の危機」を解決しながら本格的な生活をするために一家が動きだすのだ。
研究 ・フランツの目を潰した毒虫について
 今回の主題はフランツが毒虫にやられたことで失明の危機に陥る展開だ。これを通じてフランツは「無人島に取り残される」と比較にならない絶望と恐怖を味わい、目が治ると同時に自分が持っていた絶望感をも克服するという展開を取った。フランツにこのような試練を与えた毒虫について考察したい。
 劇中ではこの虫は「カワス」と呼ばれていた。この「カワス」と呼ばれる虫について他の「ふしぎな島のフローネ」の考察があるサイトを見てみたが、何処もこの虫の正体には触れないか、「調べてみたが分からない」とハッキリ認めているかのどちらかで答えに近付いているところは皆無であった。ならばと当サイトでは正体は分からなくても少しでも正解に近付く努力はしてみようかと思う。
 まず「カワス」という虫について当方でも検索をかけてみたが、やはり出てくるのは「ふしぎな島のフローネ」関連サイトばかりで前述したようにどこも正体に迫っていない。そこで今度は劇中での虫の様子をじっくり見てみた、形状はイモムシやケムシに似ているので蛾や蝶の幼虫のように見えた。それを受けて毒を持つ蝶や蛾の幼虫について調べてみたら、出てくるわ出てくるわ。
 劇中でこの虫が鳥に襲われ掛かったときに、毒を噴射するかのようにして撃退している様子が描かれていた。このシーンから察するにこの虫はイラガ科の幼虫と考えられる、イラガ科の幼虫ならば体中に毛のような毒針を持っているはずだが、これは省略されたと考えるべきだろう。天敵が近付いて危険を察したり、何者かに触られたりするとこの毒針から一斉に毒を分泌するという。その毒を浴びると激痛を感じ、皮膚は炎症を起こして痛みや痒みが数日にわたって続く。もちろん目に入った場合は失明の恐れもあるのですぐに医者に診せなければならない。イラガの仲間は熱帯地域を中心に世界中に存在しており、その種類は1000種類にも達するという。
 だが当サイトの調査でもイラガの仲間に、幼虫が「カワス」と呼ばれているものが存在するかどうかは確認が出来なかった。「カワス」という名称は日本語や英語ではない可能性が高く、これが「ふしぎな島のフローネ」研究において大きな障害となっている可能性が高い(ひょっとすると海外へ輸出され輸出先の言語に翻訳された「ふしぎな島のフローネ」をみればわかるかも?←台湾版では「蛙斯」と表記されているとのこと)。ただ全ての状況証拠は前述のとおりイラガ科の幼虫であることを示しており、「フランツの目を潰したのはイラガ科の幼虫」というものが答えに最も近いであろう。エルンストの治療は目の洗浄と患部を冷やすことで、使用した薬は抗ヒスタミン剤であったのだろう。

第14話「貝殻の歌がきこえる」
名台詞 「みんなして私には悩みなんかないみたいに言って…許せない。」
(フローネ)
名台詞度
 両親や兄が家を建てるために汗水流して働いている間、フローネはジャックの監視をしながらの留守番となる。もちろん無人島という友人の存在など期待できない環境ではこれほど退屈なことはなく、夕方になって両親や兄が戻ってきたときに話し相手を求めるが、皆は疲れていてフローネの相手なんかしていられない。さらに追い打ちを掛けるように両親がフローネには悩みがないような会話をしてしまったことで完全にフローネはふて腐れ、朝になっても布団に入ったままでこの台詞をこぼして仮病を使うことになる。
 もちろんこの台詞の裏にはフローネにもそれなりの悩みがあることが見てとれる。退屈でやることがないなんていう生やさしいものではなく、自分が家族の役に立っていないという不安や、家族が自分の話をまるで聞いてくれない不満。無人島での真剣勝負が始まると同時に彼女もこんな不満を抱えるようになっていたのだ。そして自分が持っている不満に誰も気付いてくれないということが、彼女には許せないのだ。
 もちろん物語が進むと彼女が求めていたものが何かがハッキリする。それは名場面欄にて。
名場面 フローネ救出 名場面度
★★
 母アンナが弁当を忘れて出かけてしまった事に気付いたフローネは、今こそ役に立って家族に自分の存在をアピールできるときが来たと勇んで弁当を届けに家の新築現場へ行く。弁当を届けただけでなくデザートを追加したことで皆に喜ばれ、気をよくしたフローネは「晩ご飯を作って待とう」と思い付いてテントへの帰り道に寄り道をする。そこで見つけたのはマングローブの林、ここでおかずとなるザリガニを捕まえている間にフローネが乗った木がいつの間にかに沖に流され始める。
 この事件をジョンがエルンストに訴え、彼は海岸まで走って沖に流された娘の姿を認めると、すぐに見つけた丸太に乗って漂流しているフローネを救出するが…その丸太の上でフローネは父にすがって泣く、それだけではなく父に思い切り甘えるのだ。
 ここでフローネが求めていたものがハッキリする。それは単に親に甘える時間だ、家の新築が始まってからというもの、仕事が多く疲れている両親はなかなかフローネの相手をしてくれない。それだけではなく、ベルンを旅立ってからの数ヶ月間ずっと非日常が続いているわけだからそのような時間が長い間無かったのは事実だろう。特に船が嵐に襲われて以降は生を求めて必死で家族に甘えるなんて事自体が許されなかった。そのような緊迫した段階が過ぎ、いよいよ子供は子供らしく親に甘える余裕が出来てきたのが、このちょうど両親が本格的に忙しくなるこの時期だったのだ。つまりフローネは親の愛に飢えていたのだ。
 このフローネの行動を受け、エルンストが翌日を休日と定めたのは簡単に想像できるだろう。このシーンを通じてエルンストも娘をまともに構っていなかった事実を思い知ったのだ。彼は朝のフローネ食欲不振の原因も、この時に知ったのだろう。
  
感想  物語は「無人島を知る」という段階から「無人島での生活」へといつの間にかに流れている。この流れ方が物語の切れ目を感じさせない自然な流れ方で、今回見ていて感心した点の一つである。前回までは島が無人島だという事による絶望や、島にある危険を冷酷に描写するという展開が主だったが、今回は明らかに次の段階へと移行している。
 そして前回はフランツが絶望によって腐りそこから立ち直るという展開であったが、今回はフローネが内容は違うものの全く同じ過程を辿る事となる。フランツとは違い彼女が求めていたものは純粋に親の愛情であり、親が忙しくなったことでそれどころではなくなったという現実が描かれている。物語のオチとしてフローネの求めに応じ、一家が一日を休日にして過ごすという展開が描かれたが、実はそんな事をしている場合ではない。恐ろしい猛獣は今夜にでもテントを襲いに来るかも知れないし、海からは別の危険が現れるかも知れない。今は一刻を争う状況のはずなのに、なんと暢気なことだと少年時代に再放送を見た時に感じたものだ。
 それにしても狼に似た生物のような猛獣がいるというのに、よく幼い姉弟だけで留守番させたなぁと今でも思う。どんな危険があるか分からないという自覚が今回だけは欠如してるな、こりゃ。だがその危険が確か次の回辺りで本当にやってくるんじゃなかったっけか?
研究 ・マングローブ
…フローネが乗って流された木について調べたけど、調べれば調べるほど劇中描写が不可能だと言う事が分かってきてしまったので、ここにマングローブ林を構成する木についてかなりの長文を書いたのだが全部消した。いや、マジで書いちゃったら今回の話丸々1話無かったことにしなきゃならなくなっちゃうんで…ヤボなこと調べてしまった。

第15話「木の上の家」
名台詞 「オーストラリアもこれからの大陸だが、ここは全く未開の無人島だ。しかし私たちは、衣食住の面でどんなに原始的な生活を強いられようと、心は常に文明人であることを忘れないようにしよう。」
(エルンスト)
名台詞度
★★★★
 夕食後、海岸で皿洗いをするロビンソン夫妻。エルンストはオーストラリア行きのはずがこんな事になってしまったという事を妻に詫びるが、アンナは全ては嵐のせいであって自分達が助かっただけでも感謝しなければならないとする。その会話の後にエルンストが妻にこう決意を語ったのだ。
 これは根本的には自分達は「人間である自覚」を失ってはならないという事を意味する。動物とは違い欲望を理性で押さえ込む事ができるのが人間であって、その理性を失ってはならないこと。理性を失えば家族間での思いやりの心を持つことが出来ず、食糧がなくなれば共食いという最悪の結果を呼ぶことにもなろう。さもなくば何らかの形で他の人々と出会うことになったとき、コミュニケーションが取れずに助けて貰うことも出来なくなる。だからこそ人間としての自覚を持ち、自分達は文明人として道具を使用してあらゆる困難を越え、知識と経験を集積して文明社会に戻る日に備えなければならないことをこの夫婦はよく知っているのだ。
 そこでエルンストが思い付いたのは子供達に勉強をさせることである。子供達にとっては勉強をすることこそが「文明人」としての自覚を失わないようにする唯一の手段だからだ。フランツの場合は「音楽」もあるが、ろくな楽器もないのだからそれは困難を極めることになる。こうして未開の無人島での生活は一家の生存だけでなく、「人間としての自覚」を失わないための対策をも考えなければならなくなるのだ。
名場面 引っ越し 名場面度
★★★★
 「おばけの木」の上に新築中の家の完成が翌日に迫った晩、床に入ろうとしたエルンストとアンナ(36)はジョンの様子がおかしいことに気付く。耳を澄ませば狼のような遠吠えを聞こえ、明らかにエルンストが探検中にテントを襲った猛獣がまたもこの一家を狙っていると判断できる状況だ。エルンストは銃を持ってテントの外に出るが、まだ猛獣との間には距離があり、「今のうちなら間に合う」と子供達をたたき起こして未完成の新居へ走る事を決意する。ロバは新居へ連れて行くことにし、鶏は樽の中へ隠すことにした。
 ロバを連れたフランツが先頭を走り、ジャック、フローネ、アンナ、銃を抱えたエルンストの順で森の中を走る。物音に気付いたアンナが森の中に目をやると、既に猛獣は一家に追いついていてこちらを窺っているのが見えた。アンナが悲鳴に反応してエルンストが銃をぶっ放すと、猛獣は一時退散する。川を渡り新居に着くと、フローネは難なく縄ばしごを登って行くが、ジャックとアンナはどうしても登ることが出来ない。走行している間にも猛獣は川を渡って新居に迫っている。フランツがアンナとジャックを木の裏にある隠しはしごへと誘導し、フランツが裏口の扉をしっかりと閉める。最後にエルンストが縄ばしごを引き揚げたところで猛獣たちが新居に到達、だがエルンストの思惑通り猛獣たちは木を登ることが出来ず一家は助かる。
 このシーンは猛獣たちとの「戦い」とは違い、一家決死の逃走劇と言ったところだろうか。だがこのシーンも迫力に満ちており、特に一家や猛獣たちが川を渡るシーンでは、画面に水に中を走る足下だけを映すという表現で緊張感を高めているのは秀逸だ。この表現に一家が必死になって新居へと駆けて行く緊張感や、一家を襲うべく後を追う猛獣たちの欲望が上手く伝わってくると思う。
 新居の完成というのはめでたいものだし、それにアンナの誕生日が重なっているとなれば本来なら平和的な引っ越しの光景を予測するだろう。だがその大方の予想に反して猛獣に追われるように慌てて転居という展開も、このシーンを大いに盛り上げている。こうして一家は猛獣たちに襲われる危険からは回避されることになったが…この猛獣、もう一度くらい怖い目に遭わせてくれた記憶が…。
  
感想  新居の完成が近付き、一家の母であるアンナの誕生日が近くて皆でそのプレゼントを考えているとなれば誰だって平和な展開を想像するだろう。その上、この回までに12話におけるアンナと猛獣の壮絶な戦いを思い出させるような要素は何処にもなかった、猛獣たちが一家のテントを再襲撃するような展開はなく、誰もが一件落着したと思い込まされていたのだが…実は決着など付いていなかったという事実を突き付けられる。これは私が少年時代に見た時の感想だ。
 そして平和でめでたいはずの新居への引っ越しは、猛獣たちによる再襲撃という現実に追われるように決行されるとは正直意外だった。そして森の中を走るシーンの緊迫感はなかなか迫力があっていい、これも嵐や「おかあさんの活躍」に匹敵するがいまいち印象に残らないのも事実。その原因はこのシーンでは余韻が無かったことだろう、嵐は一家が無人島に隔離されるという大きな余韻があるわけだし、「おかあさんの活躍」はアンナが倒れたり翌朝に探検で留守だったエルンストやフランツがテントが襲撃された状況を発見するという「続き」があり、かつ次回まで展開を引きずる。だがこの逃走劇はこのシーンだけ終わったら余韻を引かずにすぐに次のシーンである翌朝の光景に変わってしまうのだ。隠しはしごとか色々と隠しアイテムもあるのに…。
 ちなみにこの回、かなりの部分が「完結編」に反映されているのは驚きだ。
研究 ・ 
 

第16話「我家の日課」
名台詞 「お百姓さんはね、風の方向とか雲を見てその日のお天気を判断するの。お母さんも小さいときから、その日のお天気を空を見て判断したものよ。」
(アンナ)
名台詞度
★★
 盛大に焼き畑を行っていたアンナだが、その日を消すのにどうするのかと思って見ていたら冒頭で紹介があった通り雨を上手く利用して火を消すというアイデアを実行していた。そのために彼女はその日体感した気象状況から通り雨が来る時刻を正確に予測し、畑に火が回ってあらかた燃え終わったタイミングで雨が降るように焼き畑を実行するという芸当をみせてくれる。それを見て感心するフローネに、アンナはこう言って娘に言い聞かせるのだ。
 テレビやラジオだけでなく、インターネットというメディアを通じて最新の気象情報をいつでも入手することが出来る我々にとっては理解できないだろうが、本来天気の予測なんて言うのはその日の気象状況を体感して自分で行うものなのだ。もちろんそれで当たった場合も外れた場合も、自己責任ではあるが。ところが現代人の多くは「天気予報」に頼り切り、「天気予報」が発表する気象観測データを自分で気象の予測を行うための「資料」として使うのでなく、「天気予報」が発表した空模様を「情報」として用いる人の方が多いだろう。実はそれだって気象予報士が「資料」から推測した気象予測の一つでしかないということを、現在人の多くが見落としていることだろう。
 この台詞の裏には天候について予測するときも天気予報を鵜呑みするのでなく、様々な資料や体感から自分で考えることをしてみろというメッセージが込められているように感じてならない。もし我々が無人島に流されたら、誰も天気予報をしてくれないのだ。無人島ばかりではない、山登りをしたり海へ釣りに行ったりしても、他人の予報を当てにするのでなく自分で予測できる力が必要なんだと訴えているように感じる。確かに毎年、的確な気象予測が出来てれば起こりえなかった遭難事故が起きたりしているから。
名場面 家族会議 名場面度
★★★
 恐らくこの木上の新居に越してきて数日の頃だと考えられる、一家は家の中のテーブルに向き合ってこれからの生活ややるべき事について話し合う。家族はそれぞれ自分の提案を語り合い、それに対してどのような対策が取れるかを話し合うのだ。
 まず食糧、アンナが船から持ってきた食糧が底をついている正直に語る。これからはこの島の物しか食べられないと思われた、植物については料理法を考えれば豊富と思われるが、動物性タンパク質をどう得るかが問題になったのだ。これに対しフランツとフローネが貝を採ることと魚を釣ることを提案し、これは採用される。続いてエルンストが狼のような肉食獣がいるならば、他に草食動物がいるはずだとして狩りを行うことを提案。それとは別に食糧についてアンナから「畑を作ろう」と提案される。豆や麦やトウモロコシの種を持ってきてあるので、畑さえうまく作れればそれで食料の自給自足が可能だとするのだ。もちろんこの提案も採用され、一家の役割分担に組み込まれるのだ。
 次にエルンストが提示した議題は「島からの脱出法」というテーマである。これに対しフランツが「船を造ろう」と提案、だがエルンストは一家全員が何日も乗るような船の作り方など分からないと反論する。ただフランツの生還欲は強く、漁のために小さな船を造ってそれを元に研究を重ねようと提案。エルンストはこれに付いては首を縦に振ってこの案が採用される。だがエルンストは「船を造るにしても先のことになってしまう」とし、「船が近くを通りかかった場合について」の対応を検討が必要だとする。だがこれには一家からは「ここは船の航路から逸れている」「今まで船を見たことがない」「偶然を期待するのは虫が良すぎる」と絶望的な意見が相次ぐ。だがエルンストは自分達がここへ来たのも偶然だとし、可能性はあり「偶然というチャンスを見逃すわけに行かない」と家族を説き伏せる。これによって一家の役割分担に、「岬での見張り」と「狼煙の用意」が加わったのだ。
 この会議では子供向けのアニメにしておくのが勿体ないほど、理路整然と議題が進行して対応策が協議されているのが驚きだ。テーマは大きく二つに分かれ、「食糧について」「島からの脱出法について」という議題についてしっかりと考えられているのだ。そして前者の議題からは「漁」「狩り」「畑作り」というこれからの物語を牽引するテーマが生まれ、特に「畑作り」については島の自然だけに頼るのでなく食糧の自給自足を視野に入れた画期的な意見であろう。後者からは「脱出のための船の研究」と「船の発見とその際の合図」という考えられる対策がちゃんと示されており、これによって家族が当面の希望を得て各自が役割に従って働くことに対する士気の向上にも繋がったはずだ。
 
感想  物語はまた新しいステップに入る。新居の完成を受けて一家は島での生活に本腰を入れることになる。前半の一家それぞれの生活を決め、役割分担と当面の生活方針を立てるシーンは「避難生活」が終わりを告げたことを意味する。いよいよ助かる目処が立たない中で当面の生活について意見を出し合い、それぞれがどう動くことで当面の衣食住を守り、助かった後の事に備えるかを検討するのは名場面欄に記した通りだ。
 後半はそれを受けて一家全員が決定事項に従って忠実に行動する。その中でふたつの失敗が今回の物語の根幹を成している。1点目は岬に作った見張り台で船が通りかかったときに狼煙を上げるための薪木の件で、度々通り雨に襲われているのに気付かずに露天に放置するという失敗を犯す。もちろん最初の通り雨でそれに気付き、翌日から薪木にカバーを掛けるという対応で乗り切ることになる。この通り雨については今回の冒頭部分のナレーションで伏線を張り、後半でうまく回収したといえるだろう。そして通り雨という伏線の使用はこれだけに留まらない。
 アンナが畑を作るために焼き畑を行うのだが、この際にアンナが通り雨が来る時刻を正確に予測して焼き畑を行うという離れ業をみせてくれる(名台詞欄)。面白いのはこの畑作りが簡単に成功しない点だろう、畑を上手く作ってやっと目が出たところで野生動物に食い荒らされるという失敗を入れた事で、ここでの生活の困難さをまたまざまざと見せつけるのだ。これが今回の2点目の失敗であり、この教訓については次回に回される形となった。
 しかし、今回岬での通り雨のシーンでフローネが服を抜いて上半身裸ではしゃぐシーンがあったが、今のアニメだったら10歳とはいえ少女が裸になるのは無理だろうな。まぁ、ルーシーの時と同じく色気もクソもあったもんじゃないけど、やはりこの辺りのつくりには当時のおおらかさを感じる。でもこのシーンはひょっとすると、「世界名作劇場」シリーズにおける女の子が裸で出てくるシーンとしては最高齢のものかも知れない。あ、劇中劇とは言えマリーアントワネットが全裸で出てたか。
研究 ・焼き畑
 今回、農家出身の主婦アンナ(37)が無人島で食糧の自給自足を実現すべく畑を作ることになった。彼女は少女時代に得た知識を存分に活かし、この島での生活に役立てようと考えていたのだ。そして岬の近くの平坦地を開墾し、彼女が少人数で手っ取り早く畑を作る方法として選んだ手段が「焼き畑」であった。
 特に熱帯地域の土壌にはラソトルといわれる土が主体で土地が痩せており、農業には適さない。このラソトルという土は耕せば耕すほど水分を失って固まるという厄介な赤土で、ここに植物を植えると水を充分に吸収することが出来ずに枯れてしまうと言う。また固まった土の上に雨が降ると、今度は土が雨を吸収せず雨水が表面を流れる事になってしまう。この土は農地には向かないがその性質を利用し、干し煉瓦を作るのに利用されるという。「南の虹のルーシー」でデイトンの診療所の材質となったあの煉瓦だ。
 この土の上で植物を燃やすと、その灰によって土壌が大幅に改善されて農地に適した土に変わるのだという。本来の熱帯地方の農業では農地を区画割りし、1シーズン終わると別の区画で焼き畑を行うという手段をとっていた。これによって農業が終わった土地は速やかに元の熱帯雨林に回復するので、持続的な農業が可能であったとされる。だが近年は大規模農業事業者によって同じ土地での必要以上の焼き畑が行われ、土壌は熱帯雨林への回復能力を失って砂漠化が進むという悪循環が始まっているという。
 焼き畑農業は現在の日本では一部を除いて殆ど行われていない。

第17話「おかあさんの畑」
名台詞 「万一のことを思って…私は諦めませんよ。何度失敗しても。」
(アンナ)
名台詞度
★★★★
 なんか10話代は名台詞欄をアンナが独占しそうな勢いだ。畑を作ったはいいが一度目はやっと出た芽を草食動物に食い荒らされ、失意の中から「柵を立てる」という対策で臨んだ二度目は今度は鳥に芽を食い荒らされる。再びショックで寝込むかと思って見ていると、今度のアンナは挫けずにまだ残してある作物の種を出した。「まだ種が残っていたのか?」と問う一家に、アンナは力強くこう答える。
 今回は失敗ばかりの展開だ、畑が二度も失敗しただけでなくエルンストとフランツが苦労して作ったカヌーはあっけなく沈没して、そのショックで一家は暗い空気に包まれてきた。そこでこの母親は自分が挫けている場合ではないと気付き、ショックで寝込んでいる場合ではないと悟って自分の役割に気付いたのだ。彼女の役割は母として夫を助け子供達を守ることであり、そのためにどうしても「食糧生産」を成功させねばならない事である。それだけでなく失敗して失意に沈んでいる夫と子供を盛り立て、この暗い空気を吹き飛ばさねばならないことがこの場での役割であることも認識していたことだろう。だから彼女は立ち上がる、失敗しても挫けない姿を家族に示すために。彼女は短い時間で自分の知識と経験を総動員して対策を考え、次なる対策を探り当てた上でまた挑戦するのだ。
 もちろんこの母の挫けない姿に、カヌー作り失敗で沈んでいたエルンストやフランツも立ち直る。母の手伝いをしていたフローネとジャックも「今度は失敗しない」と信じることができ、母の手伝いの士気はみるみる向上するのだ。
名場面 二度目の失敗 名場面度
★★★
 最初の畑は作物が草食動物に食い荒らされるという結末となり、畑担当のアンナはその失意からショックで寝込むまでになってしまう。だが何とか立ち直って今度は汗水を流して畑に柵を作る。今度は大丈夫と芽が出たであろう畑の様子を見に行くと、そこにあった光景は作物が鳥に食い荒らされている状況であった。
 畑から大量の鳥が飛び立つのを見たエルンストとフランツが畑に駆けつけると、アンナとフローネはしゃがみ込んで畑の惨状を見ている様だった。フランツが「今度は鳥か…」と悔しそうに言い、「上から飛んでくるとは思わなかった」とフローネが悲しげな声で言う、エルンストも神妙な表情で「鳥とは気が付かなかったな…」と呟く。その間、アンナは座ったままじっと畑を睨んでいた。
 この物語では物事を簡単に成功させてくれないというセオリーがある。だがたいていは一度目の失敗を経て教訓を得、二度目には何とかうまくいくのである。ところがこの畑だけは一度の失敗では許してくれず、二度目の失敗を経験するという展開で視聴者を驚かせる。視聴者はこのあんまりな仕打ちに、黙ってアンナに同情するしかない。
 だがここでのアンナの表情はこれまでに見たことがないアンナの表情だ。「なんで簡単にうまくいかせてくれないの?」という疑問、「どうすればうまく行くのだろう」という苦悩、「何が何でも成功させてやる」という決意、これらの思いが複雑に表現されている。エルンストが失敗した時にも見せなかったこのじっと畑を見つめる表情は、アンナの挫けないという気持ちが素直に出ていて好きだ。もちろんここのシーンは名台詞欄の台詞に繋がる。
 こんなかたちで、今回もサブタイトルの通りアンナが主役を持って行ってしまうのだ。
 
感想  今回は「失敗」が前面に出てくる回だ。それも7話の筏作り失敗のように致命的な失敗が一度だけ出てきて、一家がそれに総当たりするという対処方法では済まされない。物語はアンナの畑作りとエルンストとフランツによるカヌー作りという二本立てで進むのだが、その双方に失敗が連発するのだ。しかも失敗の質が双方で違い、畑作りの方は同じ失敗を繰り返し、カヌー作りの方は小さな失敗を積み重ねる。特にカヌー作りのエルンストとフランツは、大木を切るのがうまく行かず何本もの木が裂いてしまい(アンナの経験により解決)、切った大木を切断する際に鋸が挟まって抜けなくなり(自己解決)、その上でカヌーを造る材質の選定に失敗してカヌーと乗っていたフランツを沈めてしまう。アンナの二度にわたる畑での失敗を含めばこの回だけで5つも失敗が繰り返されているのだ。
 そしてこれをひとつずつ乗り越えないと成功はないという道筋をしっかり立て、そのためには「ひとつやふたつの失敗に挫けてはならない」という教訓で物語が一貫しているのは秀逸だ。最近のアニメではこうも失敗が連続するものは皆無と言っていいだろう。全てがうまくいくように出来ていて、さらには偶然や運で解決させてしまう「マンガ的」な展開はギャグマンガだけで充分なのだが…。この物語はそのような展開は許されていない、無人島とロビンソン一家の真剣勝負を見せられるのだと分かる回がここかも知れない。
 そして失敗の影には輝かしい成功があり、逆もまた然りだとこの物語は教えてくれるのだ。
 それにしても今回の話、小学生時代に見たのをハッキリ覚えていたもんなー。畑が鳥にやられたときのアンナの表情は30年近い時を越えてキチンと覚えていた。それと大木を切るときは両側から切らないと木が裂けるという事を知ったのは、この物語をみたからなんだよなぁ。
研究 ・鉄の木
 今回、アンナが「スコップが欲しい」と要望したときにエルンストが答えたのは「鉄の木を使えば作れる」という物だった。この鉄の木はカヌー作りでも最終的に採用されることになっただけでなく、カヌーのオールもこの木によって作られたようだ。だが劇中では「鉄の木」という俗称だけが語られていて、その木の正体については語られていない。そこでそんな都合の良い木が本当に実在するのか、その辺りを研究して見よう。
 結論を先に言うと「鉄の木」と呼ばれる木は確かに実在し、日本でもテーマパークなどの木道やウッドデッキで利用されているというのだ。代表的な物は「ウリン」と呼ばれる木で、東南アジア方面に多く分布しているという事を考えれば舞台となっている無人島に自生していてもおかしくなく、エルンストが使った木は間違いなくこれであろう。
 この木の特徴は劇中で語られている通り大変丈夫で、それだけではなく木目が大変きれいで、耐水性に優れ腐りにくく、あまりの堅さでシロアリなどに食われる心配もなく、有害物質が含まれていないの人に優しいだけでなく要らなくなった際の処分にも困らないし、堅い割には切ったり削ったりという加工性に優れているという。あれ、劇中では「この木は堅いから切ったり削ったりが大変」で「わざわざ燃やしてから削っている」なんて言ってたけど…。
 欠点として劇中で困るのは、大変重くて運搬が困難な事だろう。どれくらい重いかって、水に浮かないほど重いのだという。比重で言うと松の倍、桐の3倍あるという。最初に造ったカヌーがどんな木を使ったのかは分からないが、もし材木として一般的な杉材と同じ比重のものを使っていたとすれば2.5倍ほどの重さがあったわけで、これを運ぶのに二人はかなり苦労したことだろう。
 この木は古くから東南アジアで水上家屋の土台や、船着き場などに使用されていたという。もちろん劇中でカヌーを造ったという事実に沿うように、この木を作って作られた船もあったという。日本では近年まで輸入禁止だので、「ふしぎな島のフローネ」放映時には殆ど馴染みが無かった木であろうが、前述した通り輸入が解禁されて以降は多くの公共施設やテーマパークなどで利用が広がっている。

第18話「メルクルを助けて!」
名台詞 「よしよし、だがお前達を乗せる前に言っておきたいことがあるんだ。あのカヌーはお前達が乗って遊ぶために造ったのではない、魚を釣ったり、貝を採ったり、漁をするために苦労して造ったんだ。つまり、生活のための大切な道具なんだ。大事に使わなくちゃいけない。わかるね。」
(エルンスト)
名台詞度
★★★
 前回の失敗を受け、今度は堅い「鉄の木」を使うように設計変更されたカヌーは出来上がり、無事に水に浮くことが出来た。この報せに海へ駆けつけた一家はフランツが沖へ漕ぎ出したのを見て安心し、そうなるとフローネとジャックは無邪気に「乗りたい」と言い出す。それに対しエルンストは二人をカヌーに乗せることを許すと同時に、こう言って聞かせるのだ。
 既にフローネの時代では、都会の子供がカヌーやボートに乗ることは非日常であり、それはレジャーの一部であったはずだ。現在の都会の子供達にとってそうであることは言うまでもないだろう。だから「珍しい物」を見た子供達はそれを「面白そう」と感じ、「乗りたい」という思いは「それで遊びたい」という気持ちそのものなのである。そこは「医者」という職業を通じて多くの人を見てきたエルンストはよく心得ており、子供達に「これはオモチャではない」とハッキリ言うのだ。もちろんこのカヌーが一家の食糧を確保するために必要な物であり壊れたら困るものだし、何よりも子供達が勝手に乗ったりして事故を起こしたりしたら大変だ。
 フローネもジャックもこれにキチンと理解を示す。現代の子供達にから見る自動車のように、子供が勝手に手を触れてはならない聖域として彼らもカヌーを扱うことになるのだ。このような事を言い聞かせる必要があるということは、物語の内容から野生児と思われがちなフローネもやはり都会っ子なのだ。
名場面 ジョンがメルクルを救助 名場面度
 ありえねー(褒め言葉)。
  
感想  今回の物語、何がいいってフランツがカヌーにジャックを乗せて出て行っている間だろう。二人が仲良く楽しんでいるシーンを流すと同時に、メルクルが乗っている事をきちんと強調して「メルクルに何かが起きる」という緊張感をびんびんに漂わせている点が秀逸だ。案の定メルクルがオールに乗って流されて…ってこの展開はちょっと意表を突かれたけど、で助けるのはジョンだというもうなんか見ているこっちまで恥ずかしくなるようなベタな展開だ。冒頭でジョンとメルクルが仲良くしているシーンがあったため、「メルクルに何かが起きてジョンによって助けられる」という展開がバレバレだった。こういう時は思い切り予想通りに行くか、逆に極端に予想を裏切るかのどちらかでないと楽しくない。中途半端な展開は×なのだ。そこで制作者側は前者を採った訳だけど…フランツが慌てるのはともかく、フローネが手が届かない場所で涙を流しているのは萎えた。あのシーンにフローネは要らないだろう(あ、でもそうしないとあの場にジョンがいる理由が無くなってしまうか)。
 冒頭の勉強シーンでフローネがわざわざ小難しい計算をしているのは当時は凄く笑った。それとお裁縫をいやがるフローネに対し、アンナが「だめだこりゃ」って感じの顔をするのも良かった。件の事件以外では一家がそれぞれ、「その人らしい」行動を取っているのが見ていて気持ちよかった。これからはこんな展開が増えるんじゃなかったか…。
研究 ・フローネのさんすう
1/6×1/3=1/6×2/6=2/36=1/18
1/5×1/4=4/20×5/20=20/400=2/40=1/20
5/6×1/3=5/6×2/6=(以下予想)10/36=5/18

…いちお合ってるけど、特に第2問は豪快だな。

第19話「フローネ、狩に行く」
名台詞 「私はいいの…とても食べる気になれないわ、撃たれて苦しむの見てたんだもん。」
(フローネ)
名台詞度
★★
 狩りについていったフローネは自分が生きて行くための「現実」を見せつけられる。狩りの途中で見つけた鳥の群れ、フランツが放った銃弾に倒れた1話がもがき苦しんで絶命するのをフローネは見てしまう。それだけではない、それが今母によって焼かれて「料理」となって目の前に現れたのである。このショックに打ちのめされたフローネは食卓につくことを拒み、子ヤギと一緒に野菜を食べていた。その時に母から食卓につくよう注意されるが、その返答と同時に呟いた台詞がこれだ。
 生き物を愛し、動物が好きだという性格で描かれてフローネがその「動物の死」を見ただけでもかなりのショックだったはずだ。しかもその「死」が家族によってもたらされたこと、その「死」が自分が生きていくために不可欠であるという現実を突き付けられるかたちとなった。フローネにとってこの現実を突き付けられたショックはあまりにも大きく、その悲しみの最も底にいる状態での気持ちがよく表れている台詞だ。特にこの台詞を言うときの声のトーンの暗さと声の低さと小ささが、担当声優の松尾佳子さんの名演もあってこのフローネの沈んだ心をよく表していると思う。
 フローネは「狩り」についてどう考えていたのか、ひょっとして自分が食べることになるとは思っていなかったのか、それとも撃ったときにあんなに苦しむとは思っていなかったのか…まさか殺すとは思わなかったなんて言うはずは無いと思うが。いずれにしてもこの「現実」から目を逸らさずにキチンと直視したこのアニメは、もっと現在の子供達に見て欲しいと思う。
名場面 フローネが銃を撃つ 名場面度
★★★
 今回のテーマは「人間と動物の関わりにおける現実」であろうが(名台詞欄・感想欄参照)、それとは違う現実を見せられるシーンがある。それはフローネが銃を撃つシーンで、このシーンでは「銃を撃つ」という行為の難しさと「カッコイイ」だけではないという現実が描かれている。
 狩りに出かけたエルンスト・フランツ・ジャックの一行は湖の畔で鳥の群れを見つける。至近距離だったこともあってフローネが銃を撃ちたいと我が儘を言いフランツと言い合いになるが、エルンストは状況から見てフローネに撃たせても良いだろうと判断、フローネに銃の構え方や扱いを教えつつ一緒に手を添えて撃つ。だがフローネは銃の反動に飛ばされてしまい、もちろん弾丸は獲物に当たることも無かった。
 この画面にある通り銃の撃ち方なんてと簡単な物ではないのだ。だが日本のアニメに出てくる少年少女は、いとも簡単に銃を扱ってしまい、子供達は銃というのは簡単に使える物だと誤解しているに違いない。構え方をキチンとしないと銃身がふらついて狙いを定めにくい上引き金を引いたときに狙いが狂うし、狙いを定めて積もりでもなかなか思ったところに弾丸が飛んでいかないところまでは多くの人が射撃ゲームで経験しているだろう。その上弾の込め方や撃鉄の弾き方をキチンと知らないと撃つことすら出来ないし、何よりも弾丸を高速で撃ち出したときの反動の大きさは実際に銃を扱ってみないと分からないだろう。こんな「銃を撃つ」ことの難しさをフローネが身をもって教えてくれるシーンなのだ。
  
感想  こんなに「人が生きて行くための現実」をまざまざと突き付けるアニメがかつてあっただろうか? このエピソードに私も当時フローネと同じ気持ちを味わった(けど根っからの野菜嫌い少年だった私はフローネのように肉料理との決別は出来なかったわけだが)。その「人が生きて行くための現実」とは人間に限らず、大きな生き物が生きた行くためには他の生命を貰うことに他ならないと言う事。自分が生きて行くために多くの牛や豚や鳥たちが犠牲になっているという真実。肉料理を食べる度に生き物を殺しているんだという現実だ。「無人島での漂流記」という内容のこのアニメでは避けて通れないこの現実から目を逸らさず、一家の食卓に上る鳥肉を得るために画面上に見える状態で鳥を殺して見せた。現在の特に都会に住んでいる子供がこのような光景を見るわけが無く、食卓にある肉が牛や豚や鳥だと言っても実感がないはずだ。そんな子供達が今回の物語を見たらフローネと一緒にショックを受けるのは間違いないだろう。
 その現実を突き付け、人間が生きて行くための行為が他の動物たちを苦しめるという現実をまざまざと見せつけた上でヤギの親子の登場だ。このヤギは母ヤギが乳を出すのでこれによって一家の栄養が支えられることになる。これは上記の現実…つまり「人が生きて行くためには他の動物を苦しめなければならない」という点とは違う意味での、人間と動物との関わり方だ。つまり母から栄養満点の乳を分けて貰う、母ヤギは子ヤギが飲む以上の乳を体内で生産しているわけだから、これなら母ヤギから「行動の自由」を奪うことはあっても生命まで取ることはなくなり人間と共存共栄が可能となるのだ。こうやって今回の物語は「フローネが狩りへ行く」という主軸を通して、人間と動物の関わり合いにおける現実を2通り見せられることになったのだ。
 。
研究 ・ナイフの岩
 狩りに出た一行は断崖の上を歩き、ここで珍しい形の巨大な岩場を見つける。フローネはこの景色に見とれて岩に名前を付けようと提案、ナイフがダイヤモンドのように輝いている風に見えると言う事で「ナイフの岩」と名付ける。
 この名前のヒントとして、エルンストが「オーストラリアにはパン切りナイフという名前の岩がある」と語っていた。早速これについて調べてみたが、今度は「ふしぎな島のフローネ」関連サイトすら引っかからないという有様で途方に暮れてしまった。ただ「パン切りナイフ」という名の岩があってもおかしくない場所については調べるまでもなく心当たりがある。今年の1月29日に放映された「クレヨンしんちゃん」(サブタイトル・「思い出のパース旅行だゾ」)に出てくる「ピナクルズ」のいう場所のことだ。場所はオーストラリア西部最大の都市西部パースから北へ約250キロ、砂漠に大小様々な形の岩が無数に並んでいるという不思議な場所である。その中に一つくらい「パン切りナイフ」と呼ばれている岩があってもおかしくはないと断言できる。ちなみにピナクルズの詳しい情報はこちらをどうぞ。まさか「クレヨンしんちゃん」が「ふしぎな島のフローネ」の考察に役立つとは思わなかったなぁ。
 元々この岩山までの谷間はこの断崖から続くひとつの山だったと思われる。火山活動かプレート活動の影響で島が隆起した際、最も激しく隆起して標高が高くなったのがこの辺りだろう。だがそれだけ激しく隆起したと言う事は岩盤にかなりの無理が掛かっていたわけで、断崖として残った部分と岩としてそそり立っている部分の中間辺りに脆い部分が出来たか、あるいは亀裂を生じたのだろう。その部分から雨水による浸食が始まり、それよりフローネ達が立っている断崖とこの岩山の部分とに切り離されたのだろう。浸食はその間の谷間をどんどん拡げてゆき、断崖とは反対側が浸食が進むにつれて薄くなっていったのだと思われる。いずれにしろ何万年のも時を掛けてこのようなかたちになったと想像され、この島は大変古い島であることもこの景色からわかる。
 ちなみにこの地形は島のどの辺りになるのかはだいたい見当がついているが、それについては後日この島そのものの考察を行うつもりなのでその際に説明したい。
 それだけ古い島なのに固有種もいないし、ましては人がいないなんて…いかんいかん、こういうことを野暮なことだと言うんだっけか。

第20話「船が見える」
名台詞 「やだ、じっと待ってるなんてやだ。」
(フランツ)
名台詞度
★★★
 足を怪我して木上の家で一人寝ていたフランツだが、その家にエルンストが慌てて帰ってくる。エルンストは家の中に入るなり「船が来たぞ」と一言言う、その言葉に驚いて飛び起きようとするフランツを、父は医師として制止する。そしてエルンストは銃を担いで家を出て行くのだが、フランツはエルンストが去るとこう呟いて捻挫で痛む足を引きずり、銃を担いで家を出る。
 この一言にはフランツのいろいろな思いが詰め込まれている。もちろん船が接近していて助かるかも知れないというチャンスで、自分だけ動けずに寝ているだけなんて事は出来ないという意味が主だっているだろう。だがこのまま無人島なんかにいたくないという思い、何とかして島を脱出したいという血の叫び…前半のフローネと「このまま島にいることになるのか?」という話題をしていたシーンをこの船接近というイベントへの伏線と考えれば、この台詞の裏にあるフランツの様々な思いを感じ取ることが出来るだろう。
 そしてフランツはこの台詞の通りの行動を取る。医師としての父に「無理をすれば歩けなくなる」と忠告されていたが、今の彼にとっては例え足を失ってもこの島から出ることの方が大事だと言うほど、「島からの脱出」という思いが強いことも見てとれる。とにかく彼のその執着が最も強く表れている台詞として、この台詞を選んだのだ。
名場面 船が見える! 名場面度
★★★★★
 16話で一家の日課に「船が接近しないか見張る」という仕事があることが分かって以来、いつかこの日が来ることは多くの視聴者が予測していたことだろう。だが「その日」がこんなに早く来るとは誰も思っていなかったに違いない。まだ物語が後半にも入らない段階で船が見えたと言う事は、一家がこの船によって発見されないことを意味している。出てきた船は一家を救助する救世主として現れるのでなく、前半最後のヤマ場として登場したのだ。
 勉強をサボってベッドで横になっていた事を母に咎められたフローネは、母に「勉強を続けるか見張り台に立つか」の二者択一を迫られて文句なしに後者を取る。そしていつも通り岬に立って海を眺めたフローネの双眼鏡に映ったものは、舳先をこちらに向けている船の姿だった。信じられない物を見たフローネは一度双眼鏡から目を外し、目をこすってから再度確認したがやはり間違いない。
 フローネは走って畑にいた両親に報告する。エルンストもまさかの報告に声が上ずる程緊張するが、フローネから双眼鏡を借りて見てみるとそれか間違いなく船であることを確認する。「帰れるのよ、私たち…」とエルンストに抱き付くアンナ。その瞬間から一家は色めきだち、フローネとアンナは岬へ行って狼煙を上げ、エルンストは家へ帰り銃を取ってからカヌーで海へ出る。足の怪我により家で寝ていたフランツも、名台詞欄の過程を経て銃を持って海辺へ向かう。
 そして一同は力の限り海へ向かって叫ぶ。フランツは畑の脇の海を見下ろせる地点で銃を撃ちながら叫び、エルンストは珊瑚礁の上で銃を撃ちながら叫び、アンナとフローネは狼煙を上げながら岬で叫ぶ。特にフローネは着ていた服を脱ぎ、それを振り回して必死に叫ぶ。
 船が気が付いてくれないことに業を煮やしたフローネは双眼鏡で船の様子を見ると、船が反転して去って行く様子が確認できた。他の家族からも船が遠ざかる様子が分かるようになり、フランツは銃を撃ち尽くすと泣きながら「お願いだから戻って来てくれ」と叫ぶ、エルンストも最後の一発を撃つと呆然とその場に立ち尽くしてしまう。アンナとフローネも呆然と立ち尽くし、アンナが微動だにしないフローネに服を着せてやると、二人は抱き合って泣き崩れる。
 見張りを決めたときから一家にとって「船の接近」というのは、「助かる」という希望の接近でもあった。だがその船に気付かれなかったことで大きな絶望と挫折を味わうのである。特にフランツは足を怪我して動けないという状況で、働いていれば考えなくて良い邪念を抱きやすい状況でもあった。これが島での生活の切望という思考に行くのは無理もなく、冒頭のフローネとの会話が島の生活に絶望したり故郷であるベルンを想う内容になっていたのは、この絶望をさらに強い物にするための伏線でもあっただろう。
 こうして船に気付かれずに救助されなかったという絶望を増幅する要素を入れておいたことで、このシーンはとても印象深い物に仕上がった。私もこの1話はハッキリ覚えていたし、無くてはならない展開としてこの回の殆どが総集編である「完結編」DVDにも収録されている。また彼らが島からの脱出に望みを賭けて行った行為は、今後明らかな形で島での生活の支障として現れることになるという壮大な伏線でもあるのだ。
  

  
感想  名場面欄にも書いた通り、この1話はハッキリ覚えていた話である。船の接近とそれに気付かれなかったという展開を通して、一家の「島からの脱出」に賭けた思いとそれが叶わなかった事による絶望を、様々な要素を追加することでとても印象深く描いている。うまく考えられた最大の要素は「フランツの怪我」であり、怪我をして動けなくなったフランツによって「島の生活に希望が持てない」という空気が倍増しているという構成は本当に上手く考えられたと、今見直すと感心する。
 だが考えようによってはこの事実から得られた物は「絶望」だけではない、物語の最後にアンナが語ったように船が島の近くを通ることがあると分かった事は「希望」でもあるのだ。だが一家はこの絶望を前にこれを希望にすり替えられるだけの精神状況になかった、エルンストですらそれが出来なかったのである。全員島から今すぐに逃げ出したかったのであり、ここで脱出が叶わなかったことは「永遠にこの島にいるしかない」と錯覚させるに十分なものなのだ。
 この1話は登場人物に対してだけでなく、視聴者に対しても一家の島での生活が簡単に終わるものではないと突きつける事になった。恐らく一度船が接近すれば一家があらゆるアピールをすることで一家は簡単に助けられると、前話が終わって次回予告を見せられるまでは感じていたことだろう。ところがこの1話はそう簡単にはこの島から出させてくれないことを突き付け、一家が島からの脱出を実現するのは別の方法であることまで示唆してくる。そういう意味でも多くの視聴者に印象に残った物語だろう。
研究 ・船の接近
 今回のハイライトはなんと言っても船の接近である。フローネが船が接近したことを一家に報告すると、皆はあの手この手で船に気付いてもらおうとするこの展開は多くの人の印象に残ってきたと思う。だが一家が取った行動は正しかったのだろうか? ここではこれを検証してみたい。
 まず船の接近を「見張り」でもって監視するという体制だが、これがかなり杜撰である事は明白だ。子供達の担当になっているために24時間体制とはなっておらず、しかも肝心の子供達は朝からしばらくの間は勉強時間となっているので見張りに立てない。食事中なども見張りはいないのでこの間に船が接近していたらアウトなのだ。彼らが遭難したのは12月30日、島に上陸したのは1月に入って間もない頃だが、この船接近を発見したのは4月21日という設定で実に4ヶ月が過ぎている。定期航路があるならば4ヶ月も船が通らないというのは時代設定を考えても不自然であり、またこの1隻だけが航路を逸れてきたとも考えがたい(行方不明の「ブラックバーンロック」号の捜索活動をしていた可能性は否定できないが)。つまり一家はこの他に何隻かの船を見落とした可能性が高いのだ。
 だが通りかかる船を夜間に発見しても発見してもらえる術はないと考えるべきだろう。ランプの小さな灯り一つが沖合の船に届くわけはないし、火を炊いても沖合の船から見える大きさにするとすれば山火事のような大きな火になってしまう。当然狼煙などは見えるはずもなく、音の場合は船でそれが聞こえたとしても無人島で真っ暗な島なのだから発生源が分からず困惑するだろう(結果、雷とされるか心霊現象とされるかのどちらかだ)。だからここまでの船は夜間に通過したと考えればいいし、夜間に見張りを立てる必要性も感じないのだ。
 では今回のように昼間に発見した場合、彼らの行動は間違っていなかったのか?
 それには船がどれくらいまで接近したかが問題になる。名場面欄のキャプ画のうち6枚目(アンナと上半身裸のフローネの後ろ姿)を見れば距離の推測は可能だ。全長70メートルあると思われる船が、2メートル離れたところに立っている夫人の頭と見かけの大きさが同じ距離になればいい(船の傾きを考慮した)。アンナの頭の直径を20センチとして計算してみると、船までの距離は約700メートルであることがわかる。つまりこの船は島まで僅か700メートルまで接近したのだ。真っ直ぐ歩けば8分の距離だ。
 彼らが取った叫ぶ、狼煙を上げる、銃を撃つという行為が700メートル離れた人に気付いてもらえるかどうかを検証すると、まず人が叫ぶというのは絶望的だ。人よりも声が通るという猿の声の到達距離が400〜500メートルで、彼らがあらん限りの大声を出したとしても「助けて!」「ヘルプミー」と相手に伝わるかどうかは疑問だ。船としては島から動物の叫び声がする程度にしか思っていなかっただろう。
 次に狼煙だが、700メートルも近付けばこれは充分視認可能だ。劇中描写でも狼煙の煙はかなり高くまで真っ直ぐ上がっていた、この状況ならば30キロ位まで離れても視認できたと考えられる。現に日本では江戸時代に津軽海峡を挟んだ本州(青森県竜飛岬…津軽藩)と北海道(北海道白神岬…松前藩)の間で狼煙を使った通信が行われていたという事実もある。ただ狼煙の欠点は伝える相手が「そこから狼煙が上がる」と認識していないと、それを信号として受け取ってもらえないこと。でないと相手は狼煙と山火事の区別が付かないし、この劇中シーンの場合は相手の船が「島には人がいてその人が生活のための火を炊いている」と判断してしまう可能性は高い。だが後述の銃声と組み合わせればこれが狼煙と考えてもらえる可能性も高かったことは事実であり、エルンストやフランツが銃を撃ったのは判断としては正解だったと考えられる。
 そして銃の使用だが、彼らが放った銃声は700メートル先の船に確実に届いているだろう。しかも海という環境だから音が何処かに反響することもなく、銃なのか雷鳴なのか区別が付かないという状況でもなかったはずだ。船にはちゃんと銃声として「バーン」「バーン」という音で届いていたと思われる。だがこの銃の使用に思わぬ誤算があった、これはフランツが勝手に銃を持ちだして結果的に二人で銃を撃つことになってしまったことだ。もしエルンストとフランツが銃を僅かな差を持ったタイミングで複数ずつ撃ったら…銃声は反響したのと同じ状況になって雷鳴と区別が難しくなったかも知れない。船が助けに来なかったと言う事は銃声も他の音に聞こえてしまったと言う事に他ならず、その原因が島からの脱出に最も執着していたフランツらしいというのはなんとも皮肉な結果だ。
 いずれにしても船は去った、叫び声は聞こえず、狼煙は島の住人の生活と勘違いされ、銃声は銃を複数使ったことで相手には雷鳴にしか聞こえなくなったというのが私の説だ。もちろん他にも考えられる、例えば船は島で救助を求めているのを認識しながら「見て見ぬふりをした」のかも知れないし、やはり救助を求める人を認識しつつも自船では救助できないので本国に応援を要請したら島の位置が分からなくなったとか、その船が視界から消えたのは去ったからではなく事故を起こして沈没したからだとか、夢とか幻とか幽霊船とかいろいろ考えられる。どの説を採るかは視聴者それぞれが決めればいい。
 だが画面描写をよく見ていると、船が島まで僅か700メートルのところへ来ているのは事実だ。一家の絶望には激しく同意せざるを得ない。

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