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第21話 「自由に飛びたい」
名台詞 「ハイジ、その小鳥はね、山よりそのカゴの方が良いのよ。ハイジ…みんながあなたと同じじゃないの、その小鳥は山なんか知らないのよ。私だってこの家からほとんど出たこととはないわ。でもね、ここには山にはないものがあるわ。さっき見せたお人形だって、ご本だって…。」
(クララ)
名台詞度
★★★
 ハイジはクララが飼っていた小鳥を空に逃がしてしまうが、しばらくするとその小鳥がクララの部屋に戻ってくる。ハイジは小鳥も山が良いに決まっていると思いよかれと思ってやったことであり、小鳥が帰って来た事が理解出来ない。そんなハイジにクララがこう語る。
 この台詞を通じて訴えられているのは「価値観の違い」という論点だろう。ここまでのハイジをみていれば解るが、ハイジは山で育ったが故に山がとても良いところで、そこが一番の楽園であり帰りたいと思っている。そしてハイジはみんなが山に行ければ幸せだとも考えている。小鳥を逃がした行為もその考えから出たものだが…そのハイジの言動は正しくない。
 都会人には都会人の楽園があり、都会人には都会人なりの「良いところ」という概念があり、それは山育ちの者とは違うという厳然たる事実がこのクララの台詞に込められているのだ。都会で生まれ都会で育ったからこそ、都会の良いところも悪いところも本当に理解しているクララならではの台詞である。このクララの台詞は正論なのだが、ハイジは幼いことも手伝って理解出来ない。
 だがこれはハイジの次なる決意に繋がる。詳しくは名場面欄にて。しかし、吉田理保子さんの声って良いなぁ。
名場面 ハイジの決意2 名場面度
★★★★
 名台詞欄の台詞を受け、ハイジはクララに反論する。「小鳥が山や林よりカゴの中が良いなんて、そんな事ないわ」とした上で、「山に来てみれば解るわ、どんなに嬉しそうにピッチーたちが飛び回っているかを見れば」と踊りながら言う。だがクララは沈んだ声で「いいわね、ハイジは…」と呟く。しばらくの沈黙の後、ハイジがクララの元に歩いて「ごめん」と謝る。またしばらくの沈黙の後、「お食事の時間です」とチネッテが飛んでくる。クララが明るい声で「行きましょ、遅れるとまた叱られるわ」と言うと、ハイジはクララの車椅子を押す。そして「山へ行ってみない? 私の山よ、アルムの山へよ。どうしてもクララに、一度あの山を見せてあげなくっちゃ!」とクララに語る。クララはこれに笑顔で答える。
 ハイジは名台詞欄でクララが語る「価値観の違い」というのを理解出来なかったに違いない。だがひとつ考えたことは、クララにしろロッテンマイヤーにしろ小鳥にしろ「山」を見せればその良さが解ると言うことだろう。同時にクララは足が悪くこの家のことしか知らないからこそ山の良さを知らず、都会が良いと感じているのだと判断したのだと思う。ハイジはそんなクララが可愛そうだと思い、何が何でもアルムにクララを連れて行くという決心をしたのだろう。この辺りの一部はこのシーンの直後にナレーターが語っている。
 このハイジの決心は、この物語の終盤を牽引することになる貴重な点だ。ハイジに「クララをアルムへ連れて行く」と強い意志がなければ、クララは山へ行く事を許されないのだ。それはクララの特殊事情…病で車椅子生活をしているという点を考えれば、大きな壁である。その壁を乗り越えるに辺りどうしても必要なのは、ハイジの強い思いだ。それがここで明確にされている。
 そしてそのためには、クララ自身にも「山へ行きたい」という強い意志が必要だが。ここではそれはない。クララの笑顔は「ハイジのそんな気持ちが嬉しい」といったところだろう。クララ自身はハイジの言う「山」へ行くのは夢物語だと、この段階で考えているに違いない。
 

 
感想  いよいよ、ハイジのフランクフルトでの生活が始動する。その過程でハイジによって歯車が狂ったゼーゼマン家のドタバタぶりが描かれ、ハイジの存在で「平穏な日々が狂っちゃった」感を強く描いたのは面白い。「仕事を増やしやがって…」と愚痴るチネッテがなんともいい味を出しているし、「どうしよう…あの娘のためにこの家はメチャメチャになるわ」と張りを失った声で呟くロッテンマイヤーも良い。だがその中でも、セバスチャンだけは自分は以前からこんな感じだという感じで演じるのがこれまた良い。セバスチャンはハイジによってゼーゼマン邸内の歯車が狂っていることを楽しんでいるに違いない。この人の演技は味があって良い、声は999の車掌のあの人だ。
 その過程でここまでのハイジを彩ってきたアイテムがひとつ失われる。それはここまでハイジがずっと着用していたあの服だ。ハイジはチネッテに入浴させられた後、あの服はなんと燃やされてしまうのだ。あのハイジ定番の衣装がこんな感じで燃やされていたなんて、今回視聴し直すまで気付かなかったなぁ。あのシーンは短いながらも、ハイジがハイジでなくなるようでちょっと怖かった。同時にフランクフルトでのハイジを印象付ける、あの白い服の登場だ。
 ここではハイジが地下室に閉じ込められて反省させられたりしても簡単に染まらず、ハイジの暴走を止めたのが名台詞欄〜名場面欄シーンでのクララというのは本当に上手く作ったと思う。ここで普段のゼーゼマン家において、ハイジを制御出来るのはクララだけという構図も上手くできたと思う。ここはハイジが「いつかクララをアルムへ連れて行く」という決心をするのと同じ位に、今話で重要なポイントであろう。

第22話 「遠いアルム」
名台詞 「山のこと? とんでもありません。そんなことは知らなくて結構です。」
(ロッテンマイヤー)
名台詞度
★★
 今話はハイジがクララに山のことを話す事から始まる。山の風景で始まり、ペーターと「おじいさん」の会話のこととなり、そしてヤギを集める口笛…クララが楽しそうに話を聞くのでハイジも調子に乗って口笛を吹きまくると、その音にロッテンマイヤーが飛び込んでくる。ロッテンマイヤーが口笛についてハイジを叱るが、クララが「山のことを色々聞いていた」とハイジを庇う。そのロッテンマイヤーの返事がこれだ。
 この台詞はこの前後に続くハイジ・クララ・ロッテンマイヤーの3人の会話のひとつでしかないが、今話を最後まで見るとロッテンマイヤーのこの台詞がじわじわと効いてくる。今話のテーマはハイジが「アルムへの距離」を思い知る事、そのひとつは名場面欄で思い知らされる「実際の距離」であるが、もう一つは人的要因による「精神的距離」だ。
 その「精神的距離」がどこから来るのか、答えはひとつでロッテンマイヤーの存在によるものであることは誰も否定しないだろう。このおばはんがだらしないことが嫌いでハイジに厳しいだけなら「精神的距離」を感じる事はないが、その上で「ハイジという人物」に興味が無いのだから始末が悪い。ハイジに興味が無いから、イコールでハイジがこれまでいた「アルムの山」に興味が無い。そして山に無理解だからこそ、ハイジを理解出来ない。だからハイジが山の話をすることを嫌い、それをクララにとって悪影響と感じる。このロッテンマイヤーの無理解こそがハイジがアルムの山に「精神的距離」を感じる理由であり、この台詞はそれを象徴しているといって良いだろう。
 ロッテンマイヤーの声はフネさんでお馴染みの麻生美代子さんだ。この人も当サイトでの登場回数、増えてきたなー。
名場面 塔の上 名場面度
★★★★
 セバスチャンから「教会の塔に登れば遠くが見える」と聞かされたハイジは、無断でゼーゼマン邸を飛び出し教会へ向かう。そして星野鉄郎流しのオルガン演奏の少年の案内で、何とか教会に着き、塔守に懇願して塔に登らせてもらう。そしてハイジが塔の上で見たものは、ハイジが見たかった山や森などではなく、何処までも続く家々だった。ハイジは見たものが信じられず、反対側の様子も見てみるがやはり同じだった。「私が思っていたのとまるで違うわ」ハイジが呟き、そして山や谷や見たいと訴えるハイジ。塔守は「ここはドイツ一の街だから、何処へ行ってもそんなものは見えない」と笑う。ハイジはそのショックに言葉を失い、涙を浮かべながら山のことを思う。
 名台詞欄に語った「精神的距離」に対し、このシーンではアルムの山への「実際の距離」をハイジが思い知る事になるシーンであると言っていいだろう。「精神的距離」だけなら「それがすぐ近くにある」ことで乗り越せたかも知れない、だがハイジはアルムが見えもしないほど遠くへ来てしまったと言うことを知ってしまうのだ。
 いや、ハイジは「彼方にアルムがかすかに見える」なんて状況ではなく、見える範囲に山や谷があるのを期待していたと思う方もあるかも知れない。だがここでハイジが見たかったのは、高くそびえる山々だったと私は解釈している。大阪の街から見る生駒山のように、街並みの向こうにアルムの山がでーんとそびえていれば、ハイジはそれで納得したはずだ。
 このショックはハイジにはとても大きい。自分のよりどころである「アルムの山」がどの方向にあるかも解らない、帰り道もどっちかわからない、それほど遠くへ来たと思い知らされたのだ。そして似たような場所すら見られないという事実は、先の「精神的距離」相まって「二度と帰れない」という不安を抱く結果になってしまったことだろう。


  
感想  名台詞欄、名場面欄の双方で語ったように、今話のテーマは「アルムへの距離」である。ハイジが心のよりどころにしている「山」が、精神的にも実質的にも遠ざかってしまった事を思い知り、落胆を描くことが今話の本筋だ。
 この「距離」と言うのは場合によっては楽しいが、今回のハイジの場合は苦痛でしかない。楽しい場合は「楽しい旅行」をしているときであり、この時は「距離」というのは旅行を盛り上げて楽しめる要素になる。だが辛い旅ではそうはいかない。私もこれに心当たりがある、子供の頃なら嫌いだったボーイスカウトのキャンプとか、中学校の時の臨海学校や林間学校やスキー旅行、大人になっても辛い出張仕事はまさにこれに当たる。子供の頃に今話を見た時、自分のボーイスカウトキャンプ時の辛い心境を思い出し、ハイジに感情移入したものだ。
 特にハイジにとって決定的だったのは、「精神的距離」の遠さが先に来てしまったことだ。自分に理解のない人物が目の前にいて、心のよりどころである「山」を否定する。私も子供の頃のボーイスカウトのキャンプはまさにこんな状況だったので、ハイジの苦痛を理解したものだ。
 そして、今話を見ていて辛いのはハイジに「救い」がないことである。ハイジが求めていた「山」は一方的に遠ざかる展開だし、ハイジが山で何をしていたか嘘偽りなく語っただけでロッテンマイヤーに否定されるといいことがない。今話のクララはいるだけだったし、セバスチャンだけはハイジを何とか喜ばせようとしていたが、それは「ハイジが落胆させられる」ということに繋がっているし…。
 こうして視聴者に生じる不安こそが、ここからの物語を盛り上げるのは誰にでも理解出来るだろう。だが子供時代の私はハイジが可哀想で、見ていられなかった。

第23話「大騒動」
名台詞 「いいな、わしが今、お伺いを立ててくるまでここで待ってるんだぞ。そしてわしがお前を部屋の中に入れてやったら、すぐに一曲弾きな。お嬢様にはいいお慰めだ、よし。」
(セバスチャン)
名台詞度
★★★
 ハイジが無断外出して教会の塔へ登った翌日、一人の少年がゼーゼマン邸を訪れる。彼はハイジがクララだと思っているが、とにかくクララに合わせて欲しいと懇願。それを聞いたセバスチャンはオルガン弾きの様子を見た後、彼をクララの勉強部屋に案内する。そしてその入り口で彼にこう語りかけるのだ。
 この台詞ではセバスチャンの「悪戯心」が上手く演じられている。ちょっと悪戯をしてロッテンマイヤーに慌てさせ、それを見て自分が笑おうという寸法だ。そのセバスチャンの企みによる「ワクワク感」が上手く台詞に込められていて、まさに車掌さんの名演技と言えよう。
 また、そのワクワク感だけで終わらせていないのがこの台詞のもう一つのポイントだ。最後に「お嬢様にはいいお慰めだ」と付け加えることである。ここにセバスチャンが家の外に出られないクララと、慣れない生活に困惑しているハイジの二人の事を思っての行動であることも描かれている。もちろんクララには滅多に聴けないオルガン演奏を、ハイジにはロッテンマイヤーが慌てている様子を見せることで、共に息抜きしてもらうのが目的だ。彼は仕事上で仕えるべき相手はロッテンマイヤーではなくクララであり、クララのためを思って行動することはロッテンマイヤーの機嫌を取るより上だということだ。そしてハイジが消沈しているとクララの心が曇ることも知っている、だからクララのためを思って仕組んだ悪戯だと彼は判断しているのだ。最後の「よし」にそこが込められているのは、いうまでもない。
名場面 大騒動 名場面度
★★★★
 名台詞欄シーンの後、今度は「教会からのお届け物」をセバスチャンが勉強部屋に持ってくる。オルガン弾きの騒動もあり、今はロッテンマイヤーの監視付きだ。ロッテンマイヤーはお届け物が入っているカゴを置いて「中を見るのは勉強の後」と突き付ける。だがクララは当然のように「先に見たい」と我が儘を言い、ハイジに同意を求めるが…ハイジの様子が何か変だ。クララが「ちょっとだけ中身を見たら勉強をする」と言い出すと、ロッテンマイヤーは家庭教師に意見を乞う。教師がそのカゴによってクララの気が散る事を心配する演説をしていると、カゴの中身が勝手に出てきて…大騒動が始まるという流れだ。
 もう、このシーンは文章で説明すると大したことないが、見ていると本当に面白い。視聴者は先回りしてカゴの中身を知っているわけだから、その中身をどうやって面白おかしく出すかがこのシーンのポイントになる。その「カゴの中身が出てくる」までの「間」がとても良くできていて、視聴者はクララが「中を見たい」と訴えている最中も、家庭教師が演説している最中も、ロッテンマイヤーが怖い顔している間も、面白くて笑いが止まらない。そんなシーンだ。
 う〜ん、説明が難しい。とにかくこのシーンの面白さは、一度DVD買うなり借りるなりしてその「面白さ」を体感して欲しいシーンだ。
  
感想  いやー、本当に面白い一話だ。「フランクフルト編」で面白い一話をひとつ挙げろといわれれば、間違いなくこの回を挙げるだろう。前話のラストと今話の冒頭で、意味ありげにネコが出てくるところから「大騒動」の予感は止まらない。ただそれでロッテンマイヤーが怒り狂い、ハイジが叱られるだけではもうここまでの展開と大差なくつまらない。これをいかに面白おかしく見せるかが今話のポイントだった訳だ。
 そしてその間に上手く、一匹だけ別に連れてきて屋根裏で隠れて飼うことにしたミーちゃんの話が入る。これはハイジとクララ、それにセバスチャンの3人が秘密を共有し信用し合うという点で今後の展開に響くのだが、ここではさらりと流している。それより前話出てきて今話ではその存在が忘れかけられていた星野鉄郎オルガン弾きを上手く使ったと感心する。直接ネコを使った大騒動に話を持って行かず、一度別件の騒動を入れることでネコの件が「じわじわ」とやってきて視聴者に期待感を持たせ、そして満を持して子ネコの騒動とにるのは本当に面白い。
 そして大騒動では、ハイジの反応もこれまたいい。ここでのハイジは視聴者と秘密を共有しているわけで、ハイジの態度はそのまま「自分がハイジならああなるだろう」という視聴者の思いだ。ハイジはもう騒動を予感しているが、物語の中にいる以上笑うわけにはいかない。下を向いているしか手はないだろう。
 今話ではセバスチャンの活躍がとても目立つ。セバスチャンがクララやハイジの側に立って企みに参加し、そしてひとつはハイジやクララと秘密を共有する「共犯者」となって二人を助け、残りの2つではロッテンマイヤーを慌てさせて自分だけでなくハイジやクララも楽しませる。これはオルガン弾きの件を見ていると想像出来ることだが、「大騒動」の時にはセバスチャンはカゴの中身を知っていて勉強部屋に持っていたはずだ。「教会からのお届け物です」と勉強部屋の前に立っていたとき、彼はオルガン弾きに見せたのと同じ笑顔だったであろう。「沢山の子ネコ」という中身を知っていて部屋に持ち込み、ロッテンマイヤーの反応を楽しんでいたに違いない。
 そして「大騒動」では、慌てふためくロッテンマイヤーを見てチネッテが始めて笑顔を見せる。このメイドは無愛想な印象しかなかったけど、今回改めて見てみると色んな表情をしていることが発見出来て面白い。

第24話「捨てられたミーちゃん」
名台詞 「帰りたくても、帰れないの!」
(ハイジ)
名台詞度
★★★★
 家出したハイジは街中でロッテンマイヤーに見つかり、ゼーゼマン邸に連れ戻される。そこではクララがハイジの帰りを待っており、ハイジが帰ってくると「もう帰って来ないんじゃないかと思って泣いていた」とした上で「もう帰ったりしないでね」と肩を抱きながら声を掛ける。その言葉にハイジは、この台詞を叫ぶように言ったと思うとクララにすがって泣く。
 ハイジにとってミーちゃんがゴミのように捨てられた件は、このゼーゼマン邸に来てからここまでの最大のショックだった。そのショックに耐えきれずに家出をしてアルムに帰ろうとしたが、そこで知ったのはお金がないとアルムへ戻れないという現実。つまりハイジは家出を通じて「自分には逃げ場が無い」という事を思い知ったのだ。
 クララはハイジの苦悩がそこまで深い事に気付いていなかっただろう。恐らくロッテンマイヤーへの反抗心で騒動を起こした…その程度に感じていたはずだ。だがクララはこの一言でこの一件においてハイジが負った「傷の深さ」を知ったはずだ。そしてクララは「ハイジをすぐに山へ帰すこと」が最適解であることも気付いている。だけど彼女はハイジを手放せない、ハイジの苦悩と同じ位、彼女はハイジがいなかった頃の孤独に戻るのが怖いのだ。
 この構図をこの台詞を通じてしっかりと見せるという点では、短いが非常に重要な台詞であることは誰も否定しないだろう。
名場面 発覚 名場面度
★★★
 ロッテンマイヤーが出かけると聞いたその日、ハイジとクララは隠れて飼っている子ネコのミーちゃんをクララの部屋に入れて楽しむ。だがそこへロッテンマイヤーが忘れ物に気付き帰ってきたのだ。ロッテンマイヤーはすぐにクララの部屋から聞こえる二人の明るい声に気付き、冷酷にもクララの部屋の扉を叩く。クララが「どうぞ」と帰すと、扉の方向を向いていたハイジは誰が部屋に来たかをすぐに悟り慌てて子ネコを隠す。クララは「なぁに? セバスチ…」と言いかけて振り返ってフリーズする。
 「何を隠したのです? こちらを向きなさい」と厳しくハイジに言うロッテンマイヤーに、クララは「私、ハイジにアルファベットを教えていたの」と咄嗟に言うがそれも嘘だとすぐ見破られる。すると子ネコが泣いてしまい、隠して飼っていたことが遂に発覚する。ロッテンマイヤーはチネッテを呼び出し、子ネコをチネッテに渡すよう迫る。「ダメよ、このネコは私がハイジに頼んで飼っているの」とクララは猛反発するが、「話をしたいからネコをチネッテに渡しなさい」とロッテンマイヤーはクララに迫る。クララは落胆した表情を見せると、ハイジにネコを渡すよう言う。ネコがいなくなるとロッテンマイヤーは部屋に入り、クララのネコだという話は本当かと迫る。「ええ、本当よ」と答えるクララに、ロッテンマイヤーは様々な理由(クララの身体に悪い)をつけて猫を飼うことを禁じる。「でも…」と反論するクララに、ロッテンマイヤーは「いけません」と答え、反論の隙を与えない。「よろしゅうございますね、あの猫は捨てます」とロッテンマイヤーはクララに確認するが、クララは意地でも返事をしない。流れる無言の時、「お返事がないのは、私の言うことを解った下さったと思ってようございますね?」とロッテンマイヤーが問うても、クララは意地でも返事をしない。ハイジが「ミーを捨てないで」と暴走したことで、ハイジとロッテンマイヤーが部屋を出て行くと、クララは部屋で一人泣き出す。
 子ネコが出てきて隠れて買い始めたときから、多くの視聴者がこの時が来ることを感じていたことだろう。そしてその時のハイジとクララの反応がどうなることかと思っていたに違いない。そのシーンはロッテンマイヤーとクララの対峙シーンとして描かれた。頑として子ネコを飼うことを認めないロッテンマイヤー、そして反論出来ないクララ。クララの精一杯の反抗は、ロッテンマイヤーの問いかけに「はい」と返事をしない、それだけだったことがよく解る。そんなクララの気持ちがよく出てくるシーンだ。そして誰もいなくなってところで一人泣くクララに、自分の願いが聞き入れられなかったことでなく、そのためにまともな反抗を出来なかった事、そしてそんな弱い自分のためにハイジまで悲しませたという彼女の後悔が伝わってくる。クララの気持ちが痛いほど伝わってくるシーンだ。
 

 
感想  前々話が「アルムへの距離」、前話は「ハイジの息抜き」であったと言っていいだろう。そして今話はハイジの最初の精神的疲弊を描く。いよいよフランクフルト編での核心部に物語が進んでいくのだ。
 サブタイトルといい、冒頭から子ネコのミーちゃんを暴走とも言える形で出し続ける点といい、今話はハイジとクララとセバスチャンによる「ミーちゃん飼育」という秘密が発覚する回であることは誰の目にも明らかだ。そしてその通りに物語は進む、ロッテンマイヤーが出かけたと安心しているハイジのクララがいる家に、突然ロッテンマイヤーが帰ってきたのだから…子供時代、このシーンで思わず画面から目を背けた記憶のある人も多いのではないかと思う。
 セバスチャンが必死になってロッテンマイヤーを止めようとするのも、それが無理だと解ったときに神に祈るのも「共犯者」らしくて良い。前話から彼は「ハイジの理解者」という姿勢を明確にしており、今話でもそれに恥じぬ行動をするから見ていて気持ちよい。
 そして名場面欄シーンのように発覚し、子ネコは捨てられる運命となる。これにハイジが深く心を痛め、ついには家出してアルムの山へ帰ろうと決心する。だが家出した通りで星野鉄郎オルガン弾きから「お金が無いと汽車に乗れない」という事実を知らされ、落胆したところをロッテンマイヤーに発見されて連れ戻される。ここで発見されていなくても、ハイジはゼーゼマン邸に帰るしかなかっただろうなぁ。そして名台詞欄シーンとなって、ハイジは「逃げ場が無い」という現実を理解したことが明かされるという見ていて心が痛む話だ。
 名場面欄シーンの直前、ハイジがロッテンマイヤーに連れられてゼーゼマン邸に戻るが、ここでのハイジの暗い表情は既に「ミーちゃんを捨てられたショック」ではなく、それより大きな「逃げ場が無い」という事実に対するものであったはずだ。その新たな傷に気付かずにセバスチャンは「ネコはチネッテから取り上げて知人に預けた」というが、これはハイジを安心させるための嘘であったと私は見ている。彼としてはハイジにとって「ネコが捨てられた」なんて結末にすることは耐えられなかったはずだ。だがハイジは既に次なる問題に直面しており、もう頭の中はネコどころでなかっただろう。ネコとの別れは一時のことだが、「逃げ場が無い」という現実とはこれからもずっと対峙し続けなければならないのだから。ハイジはまさに長い長いトンネルの中に自分がいるような気分だっただろう。

第25話「白パン」
名台詞 「だって、そうなんだもん。帰るたびにそうおっしゃるし、お土産だって下さるし、それに…ううん、違うわ。私ね、私…パパが大好きなんですもの。パパが私のこと大好きなの、当たり前でしょう。」
(クララ)
名台詞度
★★★
 クララがハイジに父のことを語る。だが父親は帰ってきてもすぐにまだ出かけてしまうと愚痴る、特に前回帰ってきた時は3日とかいなかったのが不満だ。それを黙って聞いていたハイジはハイジの所に駆け寄り、「クララのお父さんはクララが好きなの?」と問う。「決まってるわ、そんなこと。大好きよ」と笑って答えるクララに、「どうして? どうして解るの?」とハイジが問い詰める。そのクララの返事がこれだ。
 いやーっ、もう娘にこんな台詞言われてご覧なさい。もう父親としては最高の幸せですよ、ゼーゼマン羨ましいっ。子供の頃に見た時は大した台詞だとは思わなかったけど、娘を持つようになるとこの台詞はじーんと来る。いや、娘がいる父親は一度くらいは娘にこんな感じのことを言われて、顔がとろけそうになるのを堪えた経験があるはずだ。私もそうだし。
 …って親バカな話は置いておいて。この台詞がこれまた二段構えになっているのが面白い。最初はハイジの疑問に答えようとクララは色々理由を考え、それを語るのだが、途中でそれらは全部違うと気が付いて首を振って訂正する。そして一点の曇りもない単純で正しい答え、「自分が好きだから」という理由を心を込めて嬉しそうに言うクララは最高だ。吉田理保子さんの名演ここにありといった感じだ。
 この台詞を聞いたハイジは一瞬間を置いて、「そうね、きっとそうね。ああ、よかった」とクララの手を取る。これまで見たことないクララの父への想いを見て、一瞬返す言葉が無かったのだろう。それほどまでクララは父が大好きであると納得させられる台詞であり、ハイジがこのように納得するのが自然でとても良い台詞だ。
名場面 オオカミと七匹の子ヤギ 名場面度
★★★★
 主人が家に帰ってくると言うことで、ロッテンマイヤーがハイジの部屋を点検したことで、ハイジが「おばあさん」に持ち帰ろうと隠し持っていた大量の白パンの存在が発覚する。チネッテによってパンは処分され、同時にクララから「あのパンは硬くて食べられない」という事実を知らされたハイジは、部屋に飛び込み毛布に潜り込んで泣く。ハイジを追ってきたクララはハイジを何とかなだめようとするが、ハイジの心の傷が大きくて泣き止む気配がない。一度はハイジをなだめるのを諦めて部屋を出掛かったクララだが、突然振り返って「私だってヤギのこと知っているのよ」と言い、「オオカミと七匹の子ヤギ」の物語を語り出す。最初は明るく語っていたクララだったが、子ヤギがオオカミに食べられ、母ヤギが帰ってきたところからクララは涙声になる。そして語り続けられなくなり、お腹がふくれたオオカミが出てきてところでクララの声が途切れる。するとハイジが毛布から出てきて「それからどうしたの?」と聞く。するとクララはハイジが泣き止んでいるのに気付き、今までのテンポで話の続きを始める。話が終わるとハイジは大笑いだ。
 私はグリム童話の「オオカミと七匹の子ヤギ」の物語は、「アルプスの少女ハイジ」で知った。オオカミは子ヤギたちを丸呑みしたのかとか、ハイジのようにヤギはそんなに沢山子供を産まないとかのツッコミを無しにすれば、確かにこのクララの語りはとても面白い。物語の中の母ヤギに感情移入し、面白いところは面白く、悲しいところは悲しく語ったからこそ、ハイジの心に響いたのだ。
 そしてハイジの方だが、この後の「母ヤギは七匹も子供を産まない」と突っ込んだように、山での現実ばかりでこのような「お話」を聞くという経験が無かったのだろう。作り話だと解っていながら続きが気になって仕方が無い、そんなハイジの「ワクワク感」が上手く伝わってくる。泣かなきゃいけないのに面白い「お話」を聞かされて、ケラケラ笑う幼児のようだ。だがここにこれまでのハイジの物質的ではなく「精神的な貧しさ」というのも垣間見えるはずだ。精神的に貧しいからこそ、ハイジは辛く慣れない生活での困惑で「楽しさ」を見いだすことが出来ない。そして想像力に欠けているという、ハイジの性格的な欠点が浮き彫りになり、ハイジにとってなぜここでの生活が辛いのかという部分がみえてくる重要なシーンだ。
 でもやっぱり、クララの「オオカミと七匹の子ヤギ」の語りは最高だ。本当はこれを全部名台詞欄に挙げようかと考えたけど…長すぎて断念。


  
感想  前話見た次回予告や、今回のサブタイトルからしてハイジ主役でハイジの辛い物語を見せられるのかと思いきや、終わってみると今話の主役はクララだったってそんな話だ。名台詞欄、名場面欄、どちらもクララの一本勝ち。クララの父親好きという設定がここで明確にされ、同時に名台詞欄で語ったハイジの精神的貧しさと反対に、クララの精神的な豊かさが描かれる。クララがあのシーンで童話を語るというのは、精神的な豊かさがあるからこそ出来る事で、ハイジはその豊かさに始めて触れたことで「変わるきっかけ」を掴むのである。
 それにしても前半のお勉強シーン、ありゃ確かにみんな驚くしかないよなー。一生懸命勉強していたと思っていた少女が、気が付いたら机の上に載って手を振っていて「さようならー」なんて叫んだりしたらロッテンマイヤーでなくても倒れるしかない。そしてハイジの部屋を点検して出てきたカビの生えた硬いパン…ハイジはパンというのは日持ちがしないという基本的な知識が無かっただけだが、それが常識のロッテンマイヤーに言わせれば「気違い」なんだろうな。だからハイジが何を訴えても有無を問わさず事務的にパンを処分する。ロッテンマイヤーの立場で見れば、ハイジがおかしいというのは理解出来るだろう。
 それより、ハイジが自室に白パンを隠していたことをクララが知っていたというのは驚きだ。クララが「前から言おう言おうと思っていた」という「カビが生えて硬いパンは食べられない」という事実は、「帰る時にはパンを沢山作ってあげる」という言葉でフォロー出来ないショックだろう。何てったって、ハイジは「逃げ場が無い」という衝撃を前話で味わっているのだから。
 しかし、ロッテンマイヤーが紅茶に砂糖を沢山放り込むシーンでは、ポップル家の母親を思い出しちゃったなー。

第26話「ゼーゼマンさんのお帰り」
名台詞 「それはクララの顔を見てからにして下さい。ああ、セバスチャン、その小さい方のトランク、上に頼むよ。」
(ゼーゼマン)
名台詞度
★★
 大人になって、いや、ゼーゼマンと同じように一人娘を持つと、今話のゼーゼマンの言動を見て思わず笑顔がこぼれると共に、その気持ちが理解出来てきて唸ることがある。この台詞もそんな台詞の一つだ。
 久々に帰宅したゼーゼマンは、ロッテンマイヤー・セバスチャン・チネッテの出迎えを受ける。ロッテンマイヤーがハイジのことについて報告したいと申し出るが、ゼーゼマンはこう言い放って娘の部屋がある2階への階段を駆け上がって行く。
 そうそう、長い出張で娘一人と会えなかったのだから、家に帰ってきたらどんな話も後回しなのは父親として当然だ。ゼーゼマンはロッテンマイヤーが何を語ろうとしているか理解していたに違いなく、その重要度も高いことを理解していただろう。だが何もかも後回し、彼にとって最も優先度の高いことは一人娘の顔を見ることであり、続いて一人娘に土産を渡して喜ぶ顔を見ることである。ここでセバスチャンに2階へ運ぶよう指示したトランクは、まさにその土産が入ったトランクのことであり、それを指示する台詞が入ることで彼の意識が完全に娘の方に向いていることが上手く示されている。
 いやーっ、こういうのは自分も心当たりがあるからねぇ。
名場面 別れ 名場面度
★★
 ゼーゼマンは娘との10日間を終え、また仕事に出かける。クララはたった10日しか家にいられなかったと父を責めるが、ゼーゼマンは「今度こそゆっくり休みを取る」と返す。だがクララは「今度こそ今度こそって…私はいつも騙されているのよ」とタダをこねる。だがそれが我が儘だったことに気付いたクララは「ごめんなさい」と謝り、ゼーゼマンは「悪いパパだね…その代わり今日は素晴らしいお話をプレゼントするよ」と返す。そしてクララに耳打ちをすると、今度はクララの表情が晴れ「まぁ、おばあさまが!?」と声を上げる。そして父に抱き付いて喜ぶ。
 ここはクララとゼーゼマンの別れだけ、といえばそれだけのシーンではない。このシーンの前で既にゼーゼマンが自分の母親を家へ呼び寄せることについては明らかにされていたが、その事実が始めてクララに明かされるというシーンでもある。同時にそれはハイジがその新キャラクターの存在を知るというシーンであることだろう。
 クララがゼーゼマンとの別れでどうにもならない我が儘を言い、ご機嫌斜めなのはこのシーンを盛り上げる重要な点だ。その上で「おばあさまが来る」と知ったクララの表情が一瞬で明るくなることを思えば、それだけで視聴者は「おばあさまというのはとても良い人に違いない」「そしてハイジの助けになるに違いない」と理解するだろう。こうして今後の物語展開に明るい期待を持たせるという重要なシーンであるのだ。
 これに今話のラストシーンが加われば完璧だ。ハイジはクララに「おばあさま」について聞き出し、やはり視聴者と同じように「良い人に違いない」という期待を抱くことになる。ここまでハイジにとって辛い展開が続いていただけに、このシーンはその辛さから抜け出せる希望の光を、ハイジ当人と視聴者に感じさせ印象深いのだ。
  
感想  今話は前話までと打って変わり、ハイジにとって辛いシーンが無くなる。ハイジが無断外出という事件を起こすが、それはゼーゼマンの注文に真摯に対応したためでありそれでロッテンマイヤーのお咎めを受けることもない。ハイジが外出から帰ってきた時、ロッテンマイヤーだけでなくゼーゼマンがその場にいたことで安心して見ていた人も多いだろう。さらにそのシーンだが、ハイジを笑ってで迎える側の人間とそうでない人間に真っ二つに割れたのが面白い。セバスチャンが笑っている側についていて、ロッテンマイヤーの方に誰もついていないのはこの家の構図を上手く示しているといった感じだろう。もちろん、そのシーンでチネッテが画面にいなかったことも含めてだ。
 今話はとにかく、ハイジがゼーゼマン邸にやってきて起きている事の「分析」という面が大きいだろう。その分析結果は視聴者には示されず、ゼーゼマンが一人で処理して結果を出すのだが。その答えは次の物語展開「おばあさまがやってくる」という方向に上手く繋がる。ゼーゼマンはロッテンマイヤーが言うようにハイジがおかしいのではないと判断しているはずだ、娘の話や10日間ハイジと自ら関わった経験から、彼は「おかしいのはロッテンマイヤーの方だ」と判断したに違いない。だがロッテンマイヤーがおかしくなったのはハイジのせいであり、ハイジとロッテンマイヤーが水と油の関係だからという原因まで突き止めていたのだろう。だからロッテンマイヤーとハイジの距離を置くべく対策として、「おばあさま」を呼ぶことにしたということだ。
 しかし、ゼーゼマンって子供の頃に見ても親バカな印象しかなかったけど…今見るとその言動に感情移入出来るから面白い。一人娘を持つってこう言うことなんだと、いまゼーゼマンからリアルタイムに教わっているんだろうなぁ。

第27話「おばあさま」
名台詞 「全て私の指図した通りにすればいいのです。どうせ奥様は、すぐお帰りになるのですから。」
(「ロッテンマイヤー」)
名台詞度
★★
 夜の就寝前のひととき、誰にも見つからないようにクララの部屋へ遊びに行き、その帰り道のハイジはロッテンマイヤーとセバスチャンが何か言い合っているのを聞く。その言い合いの最後はロッテンマイヤーがこう言い放って締めくくられる。
 この台詞は今話を受けてのロッテンマイヤーの焦りがみえてくるだろう。これまで何事も規則正しくゼーゼマン邸を切り盛りしていたロッテンマイヤーだが、その規則正しさがハイジだけでなく「おばあさま」によっても崩されているのである。ロッテンマイヤーは自分が家を規則正しく動かしていることに誇りがあり、その誇りが音を立てて崩れようとしているのだ。そんな彼女が当たる先は…召使いのセバスチャンである。セバスチャンは恐らく、食前に「おばあさま」の命により食器を楽器にするために出してきたことを叱られていたのだろう。
 「おばあさま」がこの家の中で様々な事に気付いている。何よりも家の中に「楽しみ」が無いことは、ゼーゼマンから報告を受けていたのだろう。セバスチャンが悪戯をしてロッテンマイヤーをコケにしては楽しんでいることも、ゼーゼマン経由で知っていたのかも知れない。そしてその状況をセバスチャンも憂慮しているに違いない。だがロッテンマイヤーはそのような事よりも規則正しさが大事だと考えている。そんな構図が見えてくる台詞であり、ゼーゼマン邸がおかしくなっている最大の原因がロッテンマイヤーであることも上手く示唆している。
 またこの台詞を聞いたハイジの反応も見どころだ。「おばあさま」のおかげで一日を楽しく過ごしたハイジだが、何よりも恐れているのは「おばあさま」がいなくなる日だ。このゼーゼマン邸で楽しく生きて行けそうなきっかけをやっと掴んだところで、それが失われる恐怖というのをしっかり演じていて、今話の「おばあさま」登場でゼーゼマン邸の「空気」がガラリと変わってしまったという構図を上手く描き出している。
名場面 「おばあさま」とハイジ 名場面度
★★★★
 名台詞欄シーンの後、ハイジは部屋に戻りベッドに入る。夕方の食器を楽器にして楽しんだひとときを思い出し、その余韻に浸っていると夜だというのに部屋の戸を叩く音に気付く。
 「だあれ?」戸に向かってたずねると、「あ・た・し」と「おばあさま」の声が帰ってくる。その声に喜んだハイジが戸を開くと、「おばあさま」が本を持って立っていた。彼女は「お前にお土産を渡そうと思って…」と本を差し出すが、ハイジはそれを見て寂しい表情をする。「ダメだわ私、字読めないんだもの」とハイジが言うと、「大丈夫、ほら絵もあるんだよ」と「おばあさま」は挿絵が入っているページを開く。ハイジが笑顔を見せると、「おばあさま」は挿絵と文字の関係を説明して本の構成を伝える。「読んであげようか」「ほんと?」「さぁ、ベッドへお入り。お前が眠るまで聞かせてあげるよ」と読み聞かせタイムと決まる。ベッドに入ったハイジは神妙な顔で「おばあさま」に「すぐ帰っちゃうの?」と問うが、「安心をし、私はすぐには帰らないよ」と「おばあさま」が言うとハイジは心からの安堵を見せる。そしてナレーターの解説でハイジは3つも「おはなし」を聞き、4つ目の途中でやっと寝たことが説明される。ハイジが眠りにつくと、「おばあさま」はハイジの枕元に本を置いてそっと部屋から出て行く。
 前々話の名場面欄でハイジの「精神的貧しさ」が示唆されたが、今話ではそれにひとつの答えが出た形だ。このハイジの「精神的貧しさ」を「おばあさま」はよく理解していたに違いない。「おはなし」を知らないから想像力がない、想像力がないから何にも興味を持てない、自分の世界観だけしか知らない「精神的に貧しい少女」に「おばあさま」は実に正しいやり方で対処するのだ。
 このような「おはなし」は、幼児時代に就寝時に両親から聞かされたという人は多いだろう。私もそんな記憶がかすかに残っているし、娘にそうしてやった経験がある。そんな「おはなし」は子供の「想像力」を伸ばすことであり、こうやって想像力を持つことで子供は様々な興味を持ち、その興味のために字を覚えたり言葉を覚えたりする。だがハイジにはそれがないからいつまで経っても字が覚えられない…「おばあさま」はハイジの「精神的貧しさ」を理解していて、それが無いからハイジが字を覚えられず、そして勉強も身につかないと見抜いたのだろう。だからロッテンマイヤーに見つかって叱られるのも厭わず、ハイジの部屋を訪れたのだ。
 もちろんこうしてハイジが「おはなし」に興味を持てば、字を覚えるきっかけにもなろう。だから前もって挿絵と字の関係をちゃんと説明したに違いない。
 「おばあさま」はハイジの「精神的貧しさ」についても、ゼーゼマンから報告されていたのだろう。クララが父に前々話の名場面の話をしたに違いない。クララはハイジが「おはなし」に興味を持つことがどれだけ大事か気付かなかったかも知れないが、ゼーゼマンならそこは重要なポイントと思うだろう。もちろん、「おばあさま」も。
  
感想  「アルプスの少女ハイジ」はいよいよ折り返し点、全52話の半分を消化した形だ。そのど真ん中の話は、ハイジとクララの「おばあさま」が出会い、ハイジがこの辛いゼーゼマン邸での生活に希望を見いだす話であった。
 この「おばあさま」だが、初登場がとても印象的だったのはハッキリ覚えている。いきなりくまのぬいぐるみを着用しての登場だもんなー。しかもそれが普通に「おばあさま」の足下を映し、視聴者が「どんな顔の人だろう」と思った頃合いを見計らってロッテンマイヤーの驚く表情を入れる。「何が起きた?」と視聴者が思う頃合いで、くま登場だ。お茶目な「おばあさま」であることが一目で分かり、今後の物語に期待が持てるよう上手く作ってある。
 それだけでなく、しばらくぬいぐるみを脱がないでクララやハイジと遊んでしまうところもお茶目でよい。だからハイジの見知らぬ人に対しての恐怖感が瞬時に吹っ飛ぶのに説得力が大きい。さらに勉強の時間を見学中に居眠りしたり、グラスで「ちょうちょ」を演奏したりとその茶目っ気ぶりは留まるところを知らない。ハイジが一日「山のことを思い出さなかった」というのも理解出来る話だ。
 そして名場面欄に挙げたラストシーンは、ハイジが「変わる」ことを示唆していると言って良いだろう。字も覚えられなかったハイジが、「変わる」ためのふたつ目のきっかけを掴んでいるのは確かだ。この「おばあさま」の存在がなければ、ハイジは何も覚えられず、ロッテンマイヤーに怒鳴られるだけの日々でフランクフルト編を終えたに違いない。ここからは「そうでない」という物語が動き出すことに、視聴者は大きな期待を寄せることだろう。

第28話「森へ行こう」
名台詞 「やれやれ、可哀想なお人だこと。」
(「おばあさま」)
名台詞度
★★★
 ピクニックの当日、ハイジとクララをピクニックに連れ出そうとする「おばあさま」に、ロッテンマイヤーは異を唱える。ロッテンマイヤーの言い分は最初はクララの病気に悪いという建前だったが、それに対して「あなたはいつも物事の悪いところしか見ない」と批判されるとロッテンマイヤーは怒り心頭になり「私の積み上げたものを壊すつもりですか?」と「おばあさま」に問う。「おばあさま」が「いつでも自分だけが正しいと思ってはいけない」とした上で自分の好きなようにさせてくれと言うと、ロッテンマイヤーは「どうぞご勝手に、その代わり責任は全て取ってもらいます」と怒鳴って部屋から立ち去る。そのロッテンマイヤーが消えた扉に向かって、「おばあさま」はひとりこう呟くのだ。
 これは子供はともかく、大人がこの物語を見れば誰もが感じる事で、それを「おばあさま」が代弁した形だ。ロッテンマイヤーは有能ではあるのだろうけど頭が堅く、融通というものがきかない。その性格故に「楽しく生きる」という事を他人にさせないし、自分がしようともしない。自分が信じるもの、積み上げてきたものが全てであり、世界観の狭い女である。そのロッテンマイヤーの欠点を見て誰もがそう感じた事を、この台詞は上手く代弁してくれる。
 もちろん、物語をよく見ているとこの時点では「おばあさま」のやり方が正しいとは断定出来ない。視聴者は、「おばあさま」の優しい声とそれによりハイジとクララが喜ぶ姿を見て「おばあさま」に分があると勝手に思い込んでいるだけだ。多分多くの視聴者はそれに気付いておらず、ここでロッテンマイヤーがこの物語での「悪役」を全て引き受けているという構図にも気付かない。ロッテンマイヤーを憎く感じるか滑稽と見るかのどちらかで、だからこそこの「おばあさま」の一言がとても効く。
 しかし今話、「おばあさま」にとても良い台詞が連発しているので、名台詞欄を選ぶのに苦労したなー。
名場面 「魔法のお国」 名場面度
★★★★★
 クララの昼寝時間、「おばあさま」はハイジを遊びに誘うが、ロッテンマイヤーにこれが見つかりハイジは酷く叱られる。だがそれにもめげず「おばあさま」は再びハイジの部屋を訪れ、ハイジを「魔法のお国」に誘う。その言葉にハイジが連れられて行った場所は、書斎の隠し扉の奥にあるコレクションの収蔵庫だった。
 ハイジがゼンマイ式の鳥の置物を突くと、「最も面白いものがあったはず」と「おばあさま」は収蔵庫の棚をあさり出す。だがハイジは収蔵庫の奥にあった一枚の絵画に目を引かれていた、その絵画はイエスキリストと少年が描かれたものであったが、ハイジはその背景の山々と山羊の群れに目を引かれていたのだ。ハイジはその絵画の方へ歩き、じっと見つめる。そして目に涙を浮かべて「山が燃えてる…山羊が泣いてる…ヨーゼフが…ペーターが…おじいさん」と呟く。「おばあさん」は最も面白いオルゴールを探し出してそれを鳴らしたとき、ハイジの異変に気付く。その頃にはハイジはその場にあった踏み台に突っ伏して声も上げずに泣いていたのだ。「おばあさま」はそっとハイジに近付き、眼前にあった絵画を見て何が起きているのかを理解する。「そうかい、これを見て故郷を思い出したんだね。無理もないよ、家の中に閉じ込められてたんじゃねぇ。」と優しく声を掛ける。「よしよしハイジ、もう泣くのはお止め…」と「おばあさま」が語っても、ハイジは泣き止む様子がない。同情の表情でハイジを見つめる「おばあさま」、鳴り続けるオルゴール。
 今までこの家で、これまでハイジが見付けられなかったものが唐突に見つかる。ここはそんなシーンだ。それはハイジが見よう見ようと頑張っていた山の風景、それにヤギの群れだ。この光景を見たハイジは自分が育ったアルムを思い出したに違いない。そんな愛する土地からある日突然引き離されたハイジは、家の中で突然見付けた故郷の風景を見てただそれが恋しくて泣くことしか出来なかった。そんなハイジの心境が上手く描かれており、ハイジのアルムに対する執着が強いことを上手く示唆し、「おばあさま」の登場による楽しい日々においてもそれを忘れたわけではないことを描き出している。そしてそんなハイジに同情して涙した視聴者も多いことだろう。
 「おばあさま」はそんなハイジを見て、「何とか力にならなければ」と感じたはずだ。故郷から引き離されても健気に頑張っていた少女が、不意に故郷の光景を見付けたときの変化を見て同情しないはずがない。今話のこの後の物語はこのシーンがきっかけとなっているのは言うまでもない。
 そしてこのシーンでハイジとアルムの山々の「距離」が再度示されたことで、いよいよフランクフルト編も終盤へと突入して行く。ハイジの山への想いと「無理矢理引き離された」という背景を視聴者に思い出させるという意味で、このシーンはフランクフルト編中盤最大のヤマ場と言って良いだろう。
  

  
感想  色んな要素の物語が沢山詰め込まれた一話だ。冒頭ではなんとハイジが本を音読しているという驚くべきシーンから始まる。「おばあさま」による深夜の秘密の読み聞かせが功を奏し、ハイジは「字を読む」という行為に挑戦し、それを見事になしえたのだ。もちろんこれは「おばあさま」が読み聞かせによってハイジの世界観を拡げ、「お話」を通じて興味を持たせ、そしてハイジの側でも「お話」を覚えたことで「覚えた内容を照らし合わせれば読める」と気付いたのだろう。ハイジは知らない字に当たるとクララに教えてもらいながら本を読み、家庭教師までを驚かせる。家庭教師の驚きぶりがこれまたとても面白い。
 そして話は自然に「ハイジのお昼寝タイム」という、ハイジが一人になる時間へと進む。そこで「おばあさま」はハイジのためにいろいろと「楽しみ」を与えようとする。ハイジがこの家出の生活が辛いと感じているのは、何よりも「楽しみ」が無いことだと気付いていたのだろう。だが物語は意外な方向に展開する、名場面欄シーンでハイジの「故郷への思い」というのが明確にされるのだ。もちろんこの根本的解決は今話ではないが、このシーンで「おばあさま」がハイジのためにと「森へ行こう」と提案し、これが実行される。
 ただし、この「森へ行く」という話は、今話ではそこに到着したところで終わっている。この「森」で何が起きるのか、何のための話であるかは次回に回された形だ。だからこそ今話は名場面欄シーンが強烈に印象に残るし、物語全体と比較してもそこが本筋であるのは明白だろう。
 しかし第2話の名台詞がここで上手く生かされているとも思った。「山が燃えている」という台詞はそれ単独で独特の完成があり印象に残るが、その台詞がゼーゼマン邸で唐突に故郷の景色に出会ったハイジの言葉として出てきた事で、さらに印象的になった。名場面欄シーンは、そういう意味でも本当に上手くできていると思った。

第29話「ふたつのこころ」
名台詞 「クララ、クララ…どうしたの? 私がいけなかったの? 私のせいなの? クララは外で楽しんじゃいけないの? 病気になっちゃうの?」
(ハイジ)
名台詞度
★★★★
 楽しいピクニックから帰ると、クララは高熱を出して倒れてしまう。その報せを聞いたハイジがクララの部屋へ向かうと、「こうなったのはアーデルハイドのせいだ」とまくし立てるロッテンマイヤーの声が聞こえてきた。その声に驚いたハイジはその場に立ち尽くし、こう呟く。
 ハイジはロッテンマイヤーの不用意な一言で、最初に精神的に追い詰められるのはまさにここだと思う。これまでのロッテンマイヤーの台詞は辛辣なだけで済んでいたが、ここでのロッテンマイヤーのよるハイジへの批判は明らかにハイジをある方向へ追い詰める。それは「自分が山のことを思い出すのは良くない」という点だ。だが「山」はハイジの全てであり、その記憶を封印することは自分を否定することに他ならない。この呟きにはその瀬戸際に立たされた少女の戸惑い、そして自分で自分を責めるという最も悲惨な姿が伝わってくる。さらにこれにハイジのクララに対する「外へ出られない」という同情が重なり、ハイジの心境は複雑であり、そんな面まで上手く再現されている。
 そしてこの時のハイジの想いは、名場面欄に挙げるラストシーンに繋がるだけではない。今後のフランクフルトでのハイジの精神状況に大きな影を落とし、ハイジの精神的疲弊へと繋がって行く。ハイジの心の中に「自分が山を思い出すことはクララにとって良くない」という方程式が出来上がり、ロッテンマイヤーに山を思うことを否定された際に、それに反論出来なくしてしまうのだ。さういう意味でこの台詞こそが、ハイジが最初に精神的に追い込まれた瞬間であるのだ。
名場面 ふたつのこころ 名場面度
★★★★
 医師の診察が済むと、医師はハイジにクララの病状を説明すると共に、クララが呼んでいると告げる。その言葉に従ってハイジはクララの寝室に入るが、そこにはロッテンマイヤーがいてクララにハイジとの面会をしないよう告げる。だが今回はクララも黙って引き下がらない。クララは強い口調で「ロッテンマイヤーさん、出て行って」と言う。「なんてことを…」ロッテンマイヤーは返すと、「出て行って、そうして下さらないとまた熱が上がるわ」とクララは強く言う。ロッテンマイヤーはやむなく承諾し、寝室から出て行く。ハイジと二人だけになると、クララは「こっちへ来て」と手を伸ばす。ハイジが駆け寄るとクララはハイジの手を取り、「何処へも行かないで」と語りかける。ハイジが驚いていると「私、心細いのよ。急にハイジがいなくなったらどうしようかと思って…森は楽しかったわ、あんな事生まれて初めてよ、また行きましょう。」と続ける。「ほんと? クララ?」ハイジが笑顔を見せると「だから何処へも行かないで、ずっと私のそばにいて」とクララがハイジに懇願、「行かない、私、ずっとクララのそばにいるわ」ハイジが答えるとクララは笑顔で「ありがとう」と言う。
 今回、森でハイジが蝶を捕まえるのに夢中になってクララを置いてけぼりにしてしまう事件が起きた。その時、クララは不機嫌になり「ハイジが山へ帰るようにして」と言ってしまいハイジを傷つけてしまうが、それは本音ではなくすぐ仲直り。だがその件がクララの胸にずっと引っかかっていたのがこの台詞の前提条件だ。
 そして帰ってきて自分が熱を出せば、それがハイジのせいだとロッテンマイヤーに批判される。クララは自分でそうではないと一番よく分かっているはずだ。だがこの家ではどんな事であれロッテンマイヤーの言うことが正しい事になっている。クララは病床にあっても、それでハイジが家から追い出されるのではないかと不安だったことだろう。そしてこれがロッテンマイヤーへの不信になり、ハイジに「あなたを失うことが怖い」という本音をいう一時に席を外させたのだ。もしその場にロッテンマイヤーがいれば、そんな自分の純粋な気持ちに水を差されるに違いないからだ。
 クララのハイジへの気持ちは嘘偽りのない本音だ。ハイジを失いたくない、この下敷きにはハイジと一緒だと楽しいだけでなく、ハイジのおかげで自分が「変われた」という自覚があることだろう。今まで外の世界に興味を持たなかった自分が、積極的に外に出ようと考えるようになったのはハイジの力だったはずだ。だからハイジがいなくなると、また元の自分に戻るという恐怖がクララにあったはずで、それを「心細い」としたのだ。
 ハイジはそんなクララを見て、「クララが自分を必要としている」と強く感じたのは確かで、ハイジはクララに尽くしいつか病気を治してやることこそが自分の役割だと認識するに至ったのだろう。それが「ずっとクララのそばにいるわ」という彼女の返事であり、名台詞欄で追い詰められたことで自分で自分を責めた結果出てきた気持ちだ。だがそれが自分の否定という恐ろしい事態に繋がることもハイジは理解していると思う。だがそれによって何が起きるかは、まだ誰も解らない。そんなハイジの中の「ふたつのこころ」が上手く演じられ、サブタイトルに偽り無しというシーンでとても印象に残った。
 

 
感想   前話を受けて森へのピクニックから始まるが、ここでは予想通りハイジがはしゃぎ過ぎてしまい、それで他の子まで巻き込んで遊んだことで自由に動けないクララを悲しませてしまう。だがこれはすぐに問題解決し、何でもないことと思わせておいて今話の最後まで影響を引きずる事になるとは序盤の段階では誰も気付かないだろう。
 だがそれさえすぎれば、ピクニックの全てのシーンはおまけだ。しいて言うならこれによってハイジもクララも非常に満足すると共に、クララの肉体的負担が大きすぎた事だけを描ければよい。久々に草原を駆け回ったり、ヤギを追い回したり乳を搾ったりするハイジを見る事が出来て、安心した視聴者も多いことだろう。
 そして後半では物語は一転し、クララがピクニックの疲れから高熱で倒れるという展開へと切り替わる。ロッテンマイヤーの怒鳴り声と共に、今までの楽しさを全部ぶち壊してくれる展開だ。だがこの中からハイジは自分で自分を責めてしまい、そこからクララが大事な存在だと気付く。同時にクララはハイジという存在がかけがえのないものであることを認識する。サブタイトル「ふたつのこころ」のひとつの構図はまずこれだ。
 そしてもう一つは、ハイジの中にある「ふたつのこころ」だ。自分で自分を責めるが、ハイジの中にはラストシーンで見せた「クララと共にいなければならない」という考えの他に、やはり山が恋しくて山に帰りたい自分がいることにも気付いているはずだ。そしてクララといることはその山に帰りたい自分を否定し続けることである。その自分で自分を否定するというのがどれだけ辛く、それによって何が起きるかはハイジは知らない。だから「ふたつのこころ」が共存したままというあやふやな状態で「クララと一緒」と宣言してしまい、ここからは自分で自分を精神的にどんどん追い込んで行くことになる。こんな構図がうまく示唆された一話だ。
 そしてこの2つの「ふたつのこころ」が、名場面欄シーンで同時に演じられたのだから恐れ入った。子供の頃に見た時はこんな深い話だと思わず、こんな感想は大人だからこそみえてくる視点だろう。
 ここでハイジの精神的疲弊の入り口が口を開いているが、これがそんな悲劇の入り口だったと気付くのはちょっと後になってからなんだろうなぁ。

第30話「お陽さまをつかまえたい」
名台詞 「残念ですな。お嬢様には奥様のような方が、是非必要だと思うのですが。」
(医師)
名台詞度
★★
 本話の最後、クララの病が(普段通りまでに)治り、ハイジとセバスチャンを伴って中庭で日光浴となる。それを2階の窓から眺める「おばあさま」は、クララの熱が引いたことに安堵すると共に帰るまでに治って良かったと一緒にいた医師に告げる。医師は「よくお嬢様が承知しましたね」と問うが、「おばあさま」はあの子達はそれを知らないのだと返す。それを聞いた医師の台詞がこれだ。
 この台詞は遠回しにロッテンマイヤーのやり方を批判していると受け取って良いだろう。医師としてもロッテンマイヤーの杓子定規的で、「楽しみ」の無いやり方は共に暮らす人間の精神安定上良くないと感じているのだ。精神が安定しないと言うことは、この医師が物語前半でハイジに語ったような「病気を治そうという意思」が本人の中に現れにくく、病気が治りにくくなるということを示唆している。医師は「おばあさま」をクララの精神安定に欠かせない人物と知っており、この台詞を吐いたと言うことであろう。
 そしてこの台詞を含めたこれらの要素は、ここから先の展開の重要な伏線でもある。「おばあさま」という心のよりどころを失ったハイジがどうなるかという、すぐ目先の展開への伏線が1つ。そしてもう一つはフランクフルト編の後、クララが「山」へ行く事で大きな精神的安定を得たらどう変わるか、ということであろう。もちろんクララの「精神的安定」が簡単に得られる物ではないこともさんざん演じられた後で、この点が実行されるのは物語が最終回に近くなってからだが。
名場面 ハイジvsロッテンマイヤー 名場面度
★★★★
 街中の医師の元へ出かけたハイジとヨハンだが、大幅に時間をオーバーして帰ってきた。チネッテが「ロッテンマイヤーはカンカンだ」とセバスチャンに告げるところからがこのシーンと言って良いだろう。馬車が着くとセバスチャンとヨハンはハイジに大きなカゴを持たされる。そしてこれをそっとクララの部屋へ運ぼうと階段を登ると、案の定ロッテンマイヤーに見つかる。ロッテンマイヤーはセバスチャンとヨハンが持たされているカゴに気付き、「何ですか? それは?」と言いながら駆け寄る。
 「おみやげなの、クララに…」とハイジが言うが、ロッテンマイヤーは無視してヨハンに事情を問いただす。「森の方へ…」と語りかけたヨハンに「私が頼んだの!」とハイジが訴えるが、「あなたは黙ってなさい!」で却下。ロッテンマイヤーはヨハンにカゴの中身について問うが、ヨハンが「何が入っているか私には…」と言いかけたところでハイジが「ダメよ、開けたら逃げてしまう」と大声を出す。「またまたこの子は変なものを持ち込んで…」「捨ててらっしゃい、二度と言いませんよ!」ロッテンマイヤーは激昂するが、ハイジは静かに首を振る。「捨てなさーい! 早く捨てなさーい!」ロッテンマイヤーはキレるが、ハイジは「違うわ、クララの病気に必要なのはお日様の光なの!」と冷静に反論、ロッテンマイヤーと激論となるがここで「おばあさま」が登場しハイジを制止する。ここまでが名場面としたい部分だ。
 ここにはハイジが「変わった」事が上手く描かれていると思う。確かに今回の行動もハイジの勝手な行動による「騒動」のひとつだが、今回はハイジにキチンと行動理由がある。それは何よりも「クララのため」に考えての行動であり、これまでのようなハイジが本能に従って動いたために発生したものではないという点だ。
 だからハイジは反論する。怒鳴られたら泣くとか、しょげているだけではない、ちゃんとその「理由」を冷静に説明しようと試みるのだ。それ以前に今回は理由があると自信があるので、ロッテンマイヤーが来ても逃げも隠れもしない、カゴを隠すこともしなかった。ハイジが取った行動は「カゴを守る」ことであり、この目的を遂行することが目的となっていたのだ。
 このハイジの成長を、ロッテンマイヤーは全く無関心だ。なにせこの人はハイジという少女に関心も興味もないのだから仕方が無い。本来ならばここは褒めてやらねばならないところだが、この女はハイジの行動理由までも関心を持とうとしない。その理由が自分が仕えるゼーゼマン家のお嬢様のためであっても、である。彼女はもうゼーゼマン家のために働いているのでなく、仕事のために働いているという状況なのだ。それが視聴者から見てもハッキリ明確になるのは、このシーンだ。
 セバスチャンとヨハンがすぐにロッテンマイヤーの言うことを聞かない点は良い比較対象だ。二人はカゴの中身が何かは知らなくても、ハイジから「クララに良くなってもらう」という趣旨は聞いているはずだ。だからゼーゼマン家に忠実にあろうと、ハイジのこの作戦に乗っているということだ。この家の主人が誰なのか、少なくともロッテンマイヤーではないという構図が、このシーンからよく見えてくるという意味で印象的だ。
  
感想  さすがのハイジも「お日様の光」が持ち帰り不可であることくらいよく知っているだろう、それを持ち帰って保存出来るなら、アルムで冬にあんな寒い思いをしなくて済むとよく知っているからである。そんなハイジがどうやってクララに「お日様」をプレゼントするのか、多くの視聴者は前話次回予告の段階で楽しみだったことだろう。
 そしてそこへ話が行くきっかけとして、ハイジがヨハンと一緒に医師の元へ薬を取りに行くという設定は上手く考えたと思う。こうしてハイジは医師の口から「クララにとって必要なもの」を聞き出し、これに忠実に動くという流れにした。そしてハイジが「お日様」として選んだのは、野に咲く花と沢山の蝶、まぁ蝶については森にいた少年達が捕まえてくれたものだが。だが上手く考えたと思う。もちろんこの「お日様」には、クララは大喜びで一時の精神的安定を得たのは言うまでもない。森での楽しい時間を思い出して「早く良くなってまた森へ行く」という思いを強くしたのは確かだろう。
 その流れの中で、今回は「おばあさま」だけでなく医師までもがハイジとクララの理解者として最大限の活躍を見せる。「おばあさま」は名場面欄シーン直後で、この言い争いを上手くまとめて話を落とす重要な役を担っていたし、医師は物語のきっかけを作るだけでなく、名台詞欄シーンでは今後の展開に効いてくる重要な伏線を張る。この二人の支えがあるからこそ、今話ではハイジにとって辛いシーンが無かったのは解説するまでもないだろう。
 そして同時に、名台詞欄シーンではいよいよこの「おばあさま」が去らねばならないという次の展開を示唆する。これはフランクフルト編がいよいよ終局に向けて一気に動き出したことに他ならない。この展開で「おばあさま」がいなくなれば、ハイジは強力な理解者を失って壊れてしまうのが誰の目にも明かだろう。
 しかし、本話冒頭の人形劇シーンはほのぼのしていて好きだ。赤ずきんちゃんがオオカミの台詞を取っちゃうのは、クララでなくても大笑いだ。それと今話のチネッテ、出番は少ないけど他の話では見たことのない表情を沢山見せてくれる。いつも無表情でツンツンしているけど、本当はこんな顔だったのね。知らなかった。
 

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